恋愛ワクチン 第百十一話 善と悪(16)

菜緒ちゃんとの音信不通は10日ほど続いた。
ラインをいくら送っても既読にならない。
その頃送ったラインを読み返すと私の動揺がよく判る。
「調子どうかな?気になります」
「また解離起きちゃってるのかなあ?」
「調子よくなったら連絡くださいね。待ってます」
「大切な大切な菜緒ちゃん。元気になってね。菜緒ちゃんの回復を心から祈っています」
「菜緒ちゃんが元気にならないと僕はとても悪い人になってしまう」
「たぶん菜緒ちゃんに関わっていること自体が、僕の『トラウマの再演』です。精神病の元妻を離婚して捨てたので。他に普通に元気な娘いくらでもいるのに菜緒ちゃんが気になってしまいます」
「菜緒ちゃん元気かなあ?」

実際かなり落ち込んでいた。気持ちが沈んで頭が重く、仕事も遊びも色褪せてしまった。
こんなことなら、少なくとも菜緒ちゃんの処女は温存するべきだった。
潮時かもしれない。色々なことから引退しようか?
もうこれ以上親しくなった女性を傷付けたくない。
そこまで思いつめていた頃、10日目に菜緒ちゃんからラインが入った。
「ずっと連絡ができずに大変申し訳ございませんでした。解離を起こしたりうつ状態になったりしていたようですが、記憶がありません。『捨てた』だなんて、そんなご自身を責めるようなことは仰らないでください。なるべくしてそうなってしまった、そうせざるを得なかった、それをする他無かったのですよね。少しだけ回復してきたので、また伺ってもよろしいでしょうか?」
良かった。
本当に良かった。
デートの枠を調整して、なんとか菜緒ちゃんとの時間を作って、約二週間ぶりに会うことが出来た。
聞けば、私と会って処女を卒業した翌日か翌々日に、件の既婚者男性と会ったとのこと。
そしてその男性とも膣で性交したのだそうだ。
お手当ては貰っていない。
マックさん「それって、やっぱりその男性が好きなんじゃないの?」
菜緒ちゃん「違います(きっぱり)。恋愛感情も性欲もありません」
マックさん「じゃあ、見た目が格好良いとか?」
菜緒ちゃん「それも違います。こんなこと言うのもその男性に失礼なんですが、40代だけど結構老けて見えます。△さんのほうが若く見えるくらいです」
マックさん「ではなぜその男性と会うの?」
菜緒ちゃん「・・分かりません」
なんとなくだが、構造が掴めてきた。
まだ仮説だが、その既婚男性との関係性こそが、菜緒ちゃんにとっての「トラウマの再演」ではないだろうか?
報われない献身。
母親に対してもそうだった。菜緒ちゃんがどんなに頑張っても暴力的な態度を止めてはくれなかった。
だから解離を起こして、報われない認められない自分から逃げるしか無かったのだろう。
それならば私との関係性は菜緒ちゃんの治療薬になる。
なぜなら私はお金を渡しているからだ。
他者に対して、奉仕して尽くすことで、見返りを得られる自分。
そんな自分であれば、幽体離脱して逃げ出さずに済むのではないか。
パパ活は菜緒ちゃんにとって、他者との新しい、いわば正常な関係性の第一歩となる可能性がある。
マックさん「菜緒ちゃん、僕は独占欲とか嫉妬とかって感情がすごく希薄な人間だ。その証拠に、交際している女の子たちに彼氏がいようが他のパパさんがいようが、まったく気にならない。だから、僕がこんなことを言うのは、決して独占欲や嫉妬じゃないから、そこは誤解しないで聞いて欲しい。
その既婚者の男性とセックスするのは止めよう。
今回、菜緒ちゃんの症状が悪くなってしまったのは、僕が半ば強引に処女卒業させちゃったせいだろうかって、かなり落ち込んだんだけど、そうじゃない気がしてきた。僕じゃなくて、その既婚男性との関係こそが『トラウマの再演』だと思うよ。」

菜緒ちゃん「私もその男性とのセックスは止めようと考えていました。既婚者で不倫だから奥さんに見つかって慰謝料請求されるリスクもあるし、背中をおしてくださってありがとうございます」
善と悪。
「物事に善も悪も無い、あるのは事実だけだ」という考え方もあるだろうが、私は全てにおいて善と悪はあると思う。
なぜならそう考えなければ、人間の行為・行動の指針が無くなってしまうから。
常に自分の行うことは善なのか悪なのか、自問自答を繰り返さなければならない。
その行動指針はパパ活においても同じだ。
しかしそれでも、時に自分は悪に陥ったのではないかと感じることがある。
何と言っても若い女性の体を扱う話だ。
そもそも性欲自体がアダムとイブの時代からの原罪でもある。
自信を失い、闇の中で進むべき方向を見失うこともあるが、仮に悪に堕ちたとしても、そこから新しい善が生まれることを信じよう。
歎異抄に「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という有名な言葉がある。
いろいろな解釈が可能だが、私は今回、パパ活という汚らしい小金と性欲にまみれたいわば悪人たちの世界、そこでなければ生まれないであろう「善」にこの言葉をあてはめた。
パパ活が存在しなければ、菜緒ちゃんは救われなかったかもしれない。
いや、もちろん菜緒ちゃんがこれから私によって救われるという未来が前提ではあるのだが。
とにかく、悪人でなければ成しえない善行というのは存在する。
そしてその始まりは、自分自身の悪を認めること、少なくとも懐疑することだろう。
広い意味での「善人」とは、悪を行わない人を言う。
無関心・不関与。
それは本当の意味で「善」だろうか?
狭義の「善」は、悪への贖罪の心からこそ生まれるような気さえする。
鶏が先か卵が先かのような話だが、善と悪に関しては、人類史上、と言ったら大げさかもしれないが、私は悪が先で、その後に善が生じたのだと考える。
(続く)

過去記事リンク→(1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15)

このカテゴリーの関連記事

  • 外部ライターさん募集
  • ラブホの上野さん
  • THE SALON
  • join
  • ユニバースサポート