恋愛ワクチン 第百五話 善と悪(9)

トラウマとなるような体験は、他の体験が与えるものとは比べられない強い影響を持つ。トラウマ体験によって、その人生は暗黒に覆われてしまうように感じられる。
前に進むためには、そうした闇を振り払う必要がある。そのためトラウマを負った人はその体験に打ち勝つような体験を求める。同じような状況を繰り返し、今度こそはうまくやろうと試みる。そしてその苦境を今度こそは乗り越えることで、再び自分の人生に力と自信を取り戻そうとする。つまり過去を精算しようとする、自己治癒の試みとして同じような場面を繰り返してしまう(「場面の繰り返し」)。
こうした試みは無意識的に生じる。トラウマを負った人は意識では二度と傷つきたくはないと思っている。しかしそれにも関わらず、無意識では力と自信を取り戻したいと望む。
そのため、凄まじい葛藤とともに「再演(追体験)」は生じる。「なぜそんなところに」「なぜそんな人を」と問われても、本人ですら説明しようが無い。無意識の力でどうしようもなく危険な場面に吸い寄せられてしまう。
そして最大級に不幸なことは、こうした自己治癒の試みとして生じたにも関わらず、それは失敗してしまうことがほとんどであるということである。結果として残るのは再び深く傷つけられたというトラウマの反復であり、無意識の力で引き起こされる再演は、とても危険なものであるといえる。―

菜緒ちゃんからの返信は無い。
自分の中に芽生えた自身への懐疑を打ち消そうとするかのように、質問を追加した。

マックさん(再追伸)「パパ活で色々性的な経験に慣れて、学生の時の性的なトラウマなんか大したことじゃなかったんだって、トラウマを希釈したい?
だけど根底に強い貞操観念があるから余計に傷つく?
家がキリスト教で貞操について厳しかったとか?
当てはまる、かすってるのあったら教えてください。
全部的外れで、正解はさらに斜め上かな?」

半日ほどして、菜緒ちゃんから返信が来た。

菜緒ちゃん「とても沢山私について考えてくださったのですね。ありがとうございます。
ひとつひとつお返事させていただきます。
性的に利用なさっている、それは当然のことだと思います。当初はお金を対価に時間と身体を差しあげる、そういった利害関係が目的で発生した関係だと思いますので、出逢って間もない私にいきなり情を向けるのも難しいと思いますし、『買っている』という関係が発生した以上それを目一杯利用していかに性的な方向に持っていって愉しむかを考えられるのはごく自然な事だと思います。
△さんのそういった思いを否定するつもりはございませんし、快楽のために買われている、働きかけられているということは理解しております。私はそれを受けて精一杯お応えできるよう努力するのみです。
解離についてですが、私の担当ドクターやカウンセラーさんが仰るに今おこなっていることでは解離を避けることはできない、後に必ずトラウマとなることを自ら行いに行っているとのことです。
自らの人生を自らの手によって壊しに行ってしまっているのです。
再演はあくまで本人の試みであって、結果として治療に結びつくわけではございません。
再演によってトラウマが消えるわけではありませんし、症状が改善するわけでもありません。
なんとかしてトラウマを消せないものかともがき、トラウマにトラウマを重ねることによって元のトラウマを誤魔化そうとするのがトラウマの再演です。
つまりトラウマの再演はトラウマを深めるばかりか、病状を悪化させる一方なのです。
約3年治療を続けたことにより、フラッシュバックはほぼ起こらなくなり抑うつや不安、解離などのあらゆる症状が改善し寛解が近づいていた頃でした。
自身でも何が起こっているのか分かりませんが、寛解が近付いたその頃にパパ活を始め△さんと出逢い今に至ります。
△さんのご質問に戻ります。
△さんがアパートから帰られた後ですが、解離が起こっております。
トリガーは性行動で間違いないと思いますが、確かに仰ってくださいましたように『置いていって棄てられる』ということにも要因があるように思います。
割合としては9割8分が性行動で、残りの2分が置いていかれることにあるでしょうか…。
もしかしたら他の要因もあるかもしれませんし、思いのほか置いていかれることに対する割合も高いかもしれませんが…
△さんの> [あるいは、パパ活で色々性的な経験に慣れて、中学の時の性的なトラウマなんか大したことじゃなかったんだって、トラウマを希釈したい?]ですが、もともと私はパパ活で性的なことはするつもりはなくて、お食事やデートのみの方を探しているつもりでした。
ですのでトラウマでトラウマを希釈しようというつもりは無かったかもしれません。
ですが『男性』と関わろうとしたということは男性を克服しようとしている深層心理がどこか働いていたのかもしれません。
ヒトや物ごとに流されやすい性格からか、いつの間に△さんと性的な関係となっておりました。
お返事が遅くなり申し訳ございません。そして長くなってしまい申し訳ございません。
ここまで読んでくださって誠にありがとうございます。」

>自身でも何が起こっているのか分かりませんが ←無意識。
>男性を克服しようとしている深層心理 ←再演
>ヒトや物ごとに流されやすい性格からか ←無意識が再演を求めた
ということだろう。

正直に書こう。これを読んで私は安心した。
いや、もっと正直に書こう。しめしめと思った。
菜緒ちゃんは「それを目一杯利用していかに性的な方向に持っていって愉しむかを考えられるのはごく自然な事だと思います」と、私の性欲を見抜いて、かつそれを受け入れてくれている。
少なくとも言葉の上では。

「トラウマの再演はトラウマを深めるばかりか、病状を悪化させる一方なのです」
このもっとも重要なはずの一文に、自分の心は反応しなかった。

「再演は自己治療しようとするために生じる」と書いてあるじゃないか。確かPTSDの治療にはトラウマとなった行為に少しずつ触れて慣れさせていくっていう方法もあったはずだ。自分が関わることで、上手く「自己治療」できる可能性だってある。
そう自分に都合よく考えたのだった。

明らかに性欲にむしばまれてゾンビ化した理性が考えている。自分はまるでロイコクロリディウムに乗っ取られたカタツムリみたいだ。
(続く)

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