ナナ姫と海外旅行 IN バルセロナ 後編

匂い

目覚めるといつもとは異なる匂いがする。

その匂いは今、横で可愛いい寝息をたてて寝ているナナ姫のものだ。

ナナ姫と旅に行くためあれこれと画策しておいてなんだけれど、今なぜナナ姫が横で寝ているかうまく説明できない。

と同時にこの匂いがジョーを安心させた。

ああ、今、確かにナナ姫といるんだなぁと。

「匂い」に関して体に刻み込まれた小説がある。

学生時代から愛読していた作家坂口安吾は自伝的小説「青鬼の褌を洗う女」を以下のように書き出す。

「匂いってなんだろう。私は近頃人の話をきいていても、言葉を鼻で嗅ぐようになった。ああ、そんな匂いかと思う。それだけなのだ。つまり頭でききとめて考えるということがなくなったのだから、匂いというのは、頭がカラッポだということなんだろう。」

バルセロナでのジョーはナナ姫の匂いと共にあった。

それは安吾によれば「頭がカラッポ」ということなのだろう。

その証拠に?この間の自分の気持ちを言葉で上手く説明できない。

と言いながら何かの拍子にナナ姫の匂いが蘇ったような気分になる時、この旅行のことを饒舌に語り出したくなる。

実際にはうまく言葉が出てこないのだが。

もう一度書く。バルセロナではナナ姫の匂いと共にいた。

例えば朝の目覚め。

まだ眠たそうなナナ姫を起こすとき。

「もう5 分だけ寝かせて」

というナナ姫を急かせて二人でシャワーを浴びるとき。

すると今度はナナ姫の方が元気になって、ジョー自身を口に含み、濡れた体のままベットになだれ込む。

普段のジョーなら絶対に有り得ないけれど朝からの営みの後は、部屋が姫の匂いで満たされる。

出かける前に姿見で髪の毛をかき上げるときも。

また例えば気軽なバルで、メニューを見ながら注文に迷っているとき、何かの拍子に姫の匂いを感じることもあった。

そして例えば二人で訪れたピカソ美術館、ミロ美術館、カタールニャ美術館でも。

特にカタールニャ美術館ではいつものようにそれぞれのペースで鑑賞していたけれど、姫の視線を感じたので、振り返ると姫が手招きしている。

一枚の絵の前で佇む姫の横に並ぶ。

姫の匂いがジョーを刺激する中で、その絵を見上げる。


「ジョーさん、この絵、素晴らしいです」



とナナ姫。

そこには圧倒的な力量の祭壇画。

作者はJamie Huguet とある。

これは後追いの知識なのだけれど、15世紀後半のカタールニャを代表する宗教画家だという。

ジョーは美術愛好家ではあるけれど、自分の審美眼には自信がない。

それに対して姫は描く人だ。

だからなのか色彩は繊細かつ優美でありながらその線は重厚感があり、荘厳さを感じるという。

「絵ほど自分の思いが込められる芸術手段はない」

とナナ姫は言う。

そのときジョーは確かに姫の美しい横顔を見つめたはずだが、映像として思い出すことができない。

その代わりこのときほど、姫の匂いを感じたこともなかった。

カタールニャ美術館はガラガラだったから思わず姫を抱きしめた。

そして口を塞ぐ。

ナナ姫は少し驚いたようだったけれど、ジョーに応えて舌を絡め合う。

我ながら驚いたことにそのまま姫をトイレに連れ込み、後ろから犯した。

いや、犯されたんだな。

「ナナの中にちょうだい!」

と言う喘ぎ声と共にわずかな時間でジョーは果てた。

姫の匂いに包まれた狭い個室でのセックスは間違いなく生涯もっとも官能的瞬間だったと思う。
 

その後のナナ姫

頭の中が空っぽの、夢のようなというよりふわふわした現実とは思えない時間はあっという間に過ぎた。

そして事件?は帰国後しばらくして起こった。

突然ナナ姫はジョーの前から消えた。

姫と全く連絡が取れなくなってしまったのだ。

メールもラインも既読にならないし、電話には出ない。

何人か共通の知人がいたから彼ら、彼女らに伝言を頼んでも姫からの応答はなかった。

それでいてナナ姫がアップするSNS から事業は順調に推移し、姫が今までと変わらない日常を送っているのがわかる。

いつかナナ姫がジョーの前から立ち去る予感はいつもあった。

負け惜しみに聞こえるかもしれないし、実際負け惜しみなんだけれど、それを望んでさえいた。

ただ何も告げずに立ち去るとは夢想だにしなかった。

どんな理由であっても受け入れるつもりだった。せめて理由を教えて欲しいと痛切に願った。

その気持ちは今でも変わらない。

実を言うと試していない連絡手段が一つだけある。

ジョーはナナ姫の住むマンションを知っている。

知っているだけでなく、部屋に上がってご飯をご馳走になったこともあるし、一晩泊まったこともある。

当然?セックスもした。

共通の知人によればナナ姫は相変わらずそこに住んでいるという。

何度も姫の家を訪ねようとしたが結局どうしても訪ねることができなかった。

ジョーが躊躇した理由はいくつかある。

「ストーカー」として警察に通報されることは当然頭によぎった。

50を過ぎたおっさんが娘ほどの若い女性を追いかけるなんてどう考えても大人のやることじゃない。

しかしそれ以上にジョーを恐れさせたのはナナ姫があっさりと部屋に上げ、何事もなかったように話し出すということだった。

漱石の絶筆を例に挙げるのはおこがましいけれど「明暗」では津田と清子が再会したとき、津田は長年の疑問であったなぜ彼女が自分の前から突然立ち去ったかを問い詰めようと気色ばむ。

一方で清子の方は淡々と取り留めのない会話を津田と交わし、微笑むばかりだ。

清子が自分に対して何の頓着もないことを痛感させられた津田は「その微笑の意味を一人で説明しようと試みながら自分の室へやに帰った。」のだった。

ジョーが何より恐れたのはナナ姫が清子のように何のためらいもなくジョーを部屋に招き入れ、気色ばむジョーを前にしてただ微笑むばかりであることだ。

つまりナナ姫にとって自分が単なる金づるであったことを知らされるのはどうしても耐え難かった。

そして同時に、そんな場面で感じるだろうナナ姫の匂いに衝動が抑えられない予感にも怯えたのだった。

ナナ姫に対しては少なくともジョーにとっては過分の事業資金を提供し、しかるべき人も紹介した。

その途端ナナ姫はジョーの前から消えたから、態のいい詐欺ともいえる。

少なくともジョーの立場からすればそうだ。

それにも関わらず、ナナ姫は同じ場所に住み、変わらぬ日常を送っている。

そこでジョーは自分を納得させるために、姫の一連の行動は姫からのメッセージだと考えてみた。

「あなたは私の前には2度と現れない。あなたはそういう人だ」

というメッセージだ。

こう考えることで、姫にとって自分は単なる金づるではなく、ひと時を過ごした大事な人だとジョーは思い込むことができた。

我ながら無理筋であるけれど、こんな風にでも考えなければ理不尽な思いだけが残り、ナナ姫のことを諦めきれないジョーなのであった。



この話には続きがある。

この駄文を書く少し前にナナ姫に再会した。

正確に書けば、実際にナナ姫に会ったわけではなく、その匂いに出くわしたのだ。

それはジョーが東銀座から日比谷線に乗って中目黒に向かっているときだった。

神谷町で確かにナナ姫のあの匂いがした。

この車両に姫が乗っているのは間違いない。

残念ながら車両はかなり混んでいてナナ姫の姿を確認することはできない。

身動きが取れない中、それでも必死に姫を目で追った。

たとえ姿を見ても声をかけるつもりも勇気もなかった。

ただその匂いがナナ姫の匂いであることを確認したかったのだ。

六本木、広尾と過ぎ、恵比寿で人がたくさん降り、それと共に姫の匂いが消えた。

恵比寿はナナ姫の住まいの最寄駅だ。ナナ姫が恵比寿で降りたのは疑いようがなかった。
 

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