ナナ姫ノ事 最終話 後篇

【思い掛けずパリへ】
 少なくともここ10年くらいは自分の時間を自由にコントロールできると思っていた。そういう生き方がしたくて自分の会社を立ち上げたつもりだった。だから世那に「パリに連れて行って」と言われた時、「再来週からなら」と返事したのは、自分の方は簡単に予定が組めると思ったからだ。さらに本音を言えば世那は曲がりなりにも人妻で、10日前に旅程をコントロールするのは不可能で、体良く断れるだろうとも思ったからでもある。しかし予想に反して、世那はその場で旅程を組み、一時間後には「私の方は準備万端よ」と連絡してきた。一方でこちらは自由人のはずだからもっと簡単だと思っていたが、10日前の海外旅行は自分が思っているほどイージーではなかった。予定を調整して日程の確保という問題の他に、考えていたよりもエアーチケットがエクスペンシブだし、希望ホテルがことごとく満室だったし思い出のレストランも予約取れない。そんな時、つまりジョーが困った時に登場するのがオサム君だ。全てではないがリクエストのかなりの部分に応えてくれた。こうしてジョーは無事?機上の人になったのだった。
【サンジェルマンの気持ちのよいカフェで】

 そういう訳で、思いがけずパリに来た。3年半ぶりのパリだ。前回は姫と一緒だった。寒い季節で、パリを中心に鉄道ストが断続的に続いていたのを思い出す。市内はどこも大渋滞だった。だから二人でコートの襟を立てパリ市内を歩き廻った。夜、疲労困憊でホテルに帰って、その日歩いた距離をざっと計算してみたが、連日、二十キロを超えていて二人で驚いたものだ。
 こんなことになるとは思わなかったから今となっては二人で歩いた時間はジョーの宝物でもある。今回無理してパリにやってきたのは大切な思い出の場所をもう一度(残念ながら一人で)巡りたいという目的があるからだ。パリでもまた京都の街で聞こえてきたように姫の声が聞こえてくるだろうという下心?もあった。
  世那との待ち合わせはサンジェルマン・デ・プレ。ジョーは前日パリ入りしていた。地元民よりもお上りさんが集う有名カフェでジョーは世那たちを待った。約束した時間より少し早めに席に着いたから日本から持参した「移動祝祭日」を開く。カフェラテを飲みながらページをめくればちょっとしたヘミングウェイ気取りだ。いや彼なら何かショットを注文したかもしれないけれど。カフェも混雑しているが、目の前の教会入り口にも人だかりができている。鮮やかな陽の光が輝く七月の某日だった。陽の眩しさほどには気温は高くなく、湿気も少ないから暑さは感じない。ジョーはストライプ柄のジャケットを羽織っていたがとても快適だった。ただし、ジョーが注文したカフェラテは3年半前に比べると円安やインフレの影響もあって5割以上高くなった印象だ。元々安い店ではないけれどテラス席料金とギャルソンに払うチップそしてtaxを含めると2500円を超えるのはちょっとなあ、
 と思っているところに世那が手を振りながらやってきた。薄い黄色のワンピースが街の雰囲気とよくマッチしている。身体の線がハッキリとわかるワンピースで、自分の見せ方をよく心得た世那らしいチョイスだ。海外で待ち合わせをするといつも思うけれど日本で会うよりも女性は3割以上綺麗に見えるという法則は今回も当てはまった。特別美人というわけではないが世那には華があり、言いようのない色気もあった。そして隣にいるおっぱい丸出しのタンクトップに白いカーデガンを羽織っている色気しかない女性が例の?アリバイための友達なのだろう。
「ジョーちゃん、来たよ」と満面の笑顔で世那。
「おお、時間通り到着だな。荷物は言った通りホテルに預けてきたんだね」とジョー。
「うん、やっぱりいいホテルだった。リクエストに応えてくれてありがとう」それには答えずにジョーは言葉を続けた。
「そんなことより、隣の魅惑的な女性を紹介してよ」
「あっ、名前は和美。高校の同級生なの。音楽の道に進んだんだけど、もう一段階ステップアップしたくて今年からロンドンに拠点を移して頑張ってるのよ」
「ジョーさん、初めまして。和美です、今回はお邪魔虫でごめんなさい。素敵なホテルまでとってくださって」
 和美が頭を下げると北朝鮮製の弾道ミサイルよりも遥かに威力のある天然Hカップがその乳間を露わにして思わず「マンセー」と叫びたくなる。
「いやいや、マイプレジャーです。お安い御用ですよ」本当は全然お安くない。だって一泊◯◯万なんだもん(くまモンじゃないもん)。
「私たち、お昼まだなの。和美は日本食に飢えているのよ。近くにある蕎麦屋はどうかしら?ちょっと高いみたいだけど」
 その店なら姫とも行ったから知っている。世那は「ちょっと」と言うけれど、ちょっとどころの騒ぎじゃない。値段の問題もさることながら味はさらに問題だ。蕎麦はまあまあだけれど、天ぷら類がまるでダメだ。そもそも海外で日本料理屋に行くのは趣味がよくないとジョーは思う。パリには他に美味しいレストランが目白押しなのにあえて高くてまずい日本食を選択する必要はない。しかしながらジョーの発する言葉は心とは正反対だ。気が弱く、見栄っ張りなんです、ワタクシ。
「美女のリクエストには応えないとね。昼時だからちょっと待つかもしれないけれど、行ってみよう」
【パリで日本食は悪趣味だ】

 予想に反して待たされることなく、2階の席に案内される。日本人は我々だけで、フランス語が飛び交っているから(多分)お客は地元民?が中心なのだろう。それだけ認知されている店ということでもある。ここは蕎麦は悪くないからもり蕎麦を啜るのがベストチョイスだと思うけれど、日本食に飢えたH&Eカップ女子にジョーの念力が通じることはずがなく、天ぷら盛り合わせ、銀鱈西京焼き、板わさ等がテーブルに並ぶ。そしてまずは一本10ユーロのサッポロで乾杯。あっという間にビールをやっつけると当然のように追加。「日本食にはやっぱり日本酒よね」とEが言えば「あっ、獺祭のスパークリングがある」とHが応じる。ジョーは怒りに震えつつ、涙が溢れる出そうになるのを必死に堪えているので、食事を楽しめない。結局ワインまで飲むことになり、蕎麦で〆たからお会計はまさかの?オーバー300€。先が思いやられるね。
【パリの掴みはクルーズでしょ!ディナーはエッフェル塔近くの二つ星フレンチ】

 気を取り直して?腹ごしらえをした後は、サンマルタン運河のクルーズ。ジョーはセーヌ川クルーズより、こちらの方がずっと好きだ。少し匂うけれどスタートはパリ市内に張りめぐされた地下用水路から。そこを通り抜け、途中映画「北ホテル」の舞台となった水門では水位調整もあり、船が浮かび上がったり沈んだりする。セーヌ川クルーズに比べると子供騙し度がずっと高いのも気に入っている理由の一つだ。運河沿いにゆっくりと航行するのでパリの街並みを目の高さで楽しむこともできる。E&Hも喜んでくれて掴みはOK。
 その後は一旦ホテルに帰り、ジョーだけジーパンからセミフォーラムに着替えてエッフェル塔に寄った二人をピックアップして予約した小さなフレンチレストランへ向かう。なかなか席が取れない人気店なのにどういう技を使ったか不明だがオサム君が予約してくれた。3年半前はひとつ星だったけれど、二つ星に昇格して値段は三つ星級になっていた。英語メニューをリクエストし、散々迷った挙句E&Hはメインとして牛肉を、ジョーは鶏肉のオレンジソテーをチョイスした。鶏肉料理はこの店の名物でもある。この店で牛肉をチョイスするのは「アンポンタンよ」という姫の言葉が蘇る。味は昔と変わらずというか、少し苦味の効いたオレンジソースが鶏肉の味を引き出していて隠し味のセンチメンタルな思い出の効果もあってより美味しく感じられた。お互い少しずつシェアーしたけれど、ジョーのチョイスが圧勝。「どうして鶏が一番美味しいって教えてくれなかったの」とEは文句を言っていたけど、美味しいものは簡単には教えたくない。当然食事に合わせてワインも楽しんだ。赤はボルドー、白はブリュゴーニュー産をチョイスし、二種類のデザートも別腹に収めた。ジョーはディナーに備えて昼の天ぷらには手をつけなかったし(不味いのがわかっていたということもある)蕎麦もスキップしていた。二人は「もうとても食べられない」と言って2種類のデザートのうち、より美味しい方をパスしていた。ジョーは「ア・ン・ポ・ン・タ・ン」と姫がよくしたように一語一語区切りながら心の中で呟き、大満足で店をあとにしたのだった。
【あっ、そういうことね】
 予約したホテルはその昔マリーアントワネットの宮殿だった建物で、コンコルド広場に面している。数年前の改装を経て宮殿だった雰囲気を残しつつ、現代的なホテルとして蘇った。ジョーの予約した部屋は二間続きで、寝室と簡易的なリビングに分かれている。狭いながらもバルコニーもあってコンコルド広場を見渡すことができた。
 部屋に入ると女性陣から歓声があがる。ジョーもつられそうになったけれど、今日から三泊のために支払った金額を思い浮かべて気分が悪くなったのでとても歓声をあげる気にならなかった。代わりに悲鳴をあげて良いなら躊躇なくそうしたけれど、来年還暦を迎える身としてはそこまで子供っぽくはなれない。預けた荷物は既に部屋にあった。女性陣はリビンングの方でスーツケースを全開にし荷解きを始める。手持ち無沙汰だったので、ジョーはバスにお湯を張り、ゆっくりと体を沈めた。いつもはカラスの行水だけれど、十数分湯船に浸かりながら今日1日の出来事を反芻する。悪くない1日だった。天気も良かったし。ただ、これがあと2日続と思うと気が滅入る。そうだ、明日は別行動を提案してみよう。世那だって、冴えないオッサンより親友とパリを巡る方が楽しいだろう。それなら善は急げだ。名残惜しかったけれど、気持ちのよい湯加減のバスから飛び出て、ローブに着替えた。
 バスルームから出てみるとリビングの方から喘ぎ声が聞こえる。音を立てないようにゆっくりと近づくとE&Hが既に下着姿で熱い抱擁を交わしていた。やっぱりね。ジョーは驚かなかった。だって今日一日二人の振る舞いを見ていたらサツキと先生の関係を彷彿させたから。互いのボディータッチは頻繁だったし、近づいて話すその仕草がサツキと先生のようだったから。こういう関係なら問題なくジョーの提案は間違いなく受け入れられるだろう。
 EがHのブラジャーを外す。当然ながらロケット型のHの素晴らしいバストが顕になり、間髪を空けずEはそのトップに愛撫を繰り返す。ゆっくりとそして激しく。するとHは大きく体をのけ反らせ、その角度に比例して喘ぎ声も大きくなった。ジョーに気が付いた世那は手招きしてジョーを呼び寄せる。和美から身体を離すとジョーを抱きしめ、舌を絡ませる。ジョー好みの全力のキスだ。和美の方といえばジョーに近づいてひざまずき、細やかなイチモツを口に含ませる。いつかどこかで見た状況だ。するとジョー自身がドーピング効果もあってみるみる起立していった。そしてベッドルームに移動すると後はもうクンズホクレツ状態でアンナことやコンナことをしつつ、互いの指と舌、そして一つの突起物が入れ乱れた。Hカップは色んなものを挟むのに便利なことを知った。結局ジョーは二人に一発ずつ中出し(だって「中に頂戴って」言うんだもん←くまモンじゃなかばい)し、男子の本懐を果たした。
 こうして1日目の夜は更けていった。もし2発のノルマが次の晩もそしてその次の晩も続いていたらジョーは死んでいたかもしれない。そうならなかったのはラッキーだった。ただし、幸運は何もせずにやってくることはないというのがジョーのささやかな人生訓だ。残りの二日間はジョーがソファで眠り、2人にベッドを譲ったのでジョーは死なずに済んだのだった。

【やっぱりパリは芸術の街だ】
 予想通り翌日からは単独行動が認められた。多分E&Hも願ったり叶ったりだっただろうし、ジョーも行きたい場所に自分のペースで行きたかった。
 久しぶりのパリだから有名どころの美術館、博物館はやっつけておきたい。オランジェリーから始まり、八箇所を二日間かけて廻った。ルーブルとオルセーは二日とも足を運んだ。美術館巡りは思いの外、体力を消耗するものだが、今回は久しぶりのパリということもあって、精力的に鑑賞することができた。しかもタクシーは使わず、地下鉄もバスもなるべく使わずに姫とそうしたように歩きに歩いた。気温は高かったけれど、湿度は低いから木陰に入れば爽やかな冷気が疲れを感じさせなかったのだろう。もちろんここ、あそこで姫との思い出が蘇った。京都で経験したように姫の声が聞こえてくることはなかったがこちらからは常に話しかけていたから、寂しくはなかったし、二人で歩いているかのような感覚を楽しむことができた。昼食は二日ともオルセー近くの思い出のカフェレストランで同じメニューを食べた。その味は隠し味としてセンチメンタルが足されていたので変わらず素晴らしかった。
 夕食はE&Hと合流し、一緒に食べた。2日目はベトナム料理、3日目はバスク料理。どちらのレストランも姫との思い出が詰まった店だ。二人の話すその日の出来事をバックミュージックに心の中では姫との会話を楽しんだ。多分ジョーは終始ニヤニヤしていたのだろう、世那から「ジョーちゃん、何だかずっと嬉しそうね、和美のオッパイに釘付けみたい」と嫌味を言われた。確かに和美のロケット弾は金◯◯なら感涙ものかもしれないが正直ジョーは眼中になかった。でもエセ紳士の嗜みとして「確かに和美ちゃんのお胸はICBM並みの強力ウエポンだね。」というお世辞?を言うのは忘れなかったので、眼中にないことはバレずに済んだ。
パリからダブリン、ブタペスト、プラハへ。そして再びパリ】
 最初はどうなることかと思ったけれど、4日間はあっという間にすぎる。ホテルでお互いハグを交わし、E&Hはユーロスターに乗るためパリノード駅へ、ジョーは空港へと移動した。中高時代の同級生がダブリンとブタペストに住んでいるのでそれぞれ2泊ずつして旧交を温めた。学校時代、二人とも特別仲が良かったわけではないが、五十歳を記念して開催された同窓会で再会し、一気に距離が近くなった。折に触れて互いに連絡を取り合いコロナ後ようやく再会を果たすことができたのだ。特にブタペスト在住のTは愛車のシュコダ(チェコ製自動車)で八時間かけてプラハまで連れて行ってくれた。二人とも来年還暦を迎えるから車中での話題は余生のことが中心になる。八時間のドライブ中、自分たちでも不思議に思うくらい話題が尽きることなくほぼずっと喋っていた。おそらく中高六年間で話した総時間を遥かに超えていただろう。
 二人とも還暦を来年に控えていたから話題の中心はお互いの余生についてだ。Tは一時帰国は別として日本に帰るつもりはなく、ブタペストで骨を埋めるつもりだという。ブタペスト滞在中、ハンガリー人を何人も紹介されていたが、Tのハンガリーでのポジションがよく分かった。ビジネスで成功を収め、濃密な人間関係を築いていた。学校時代から独自の価値観と感覚で生きていた奴だったがこの地に来て拍車がかかった感じだ。ジョーの知らないTがそこにはいた。紆余曲折を経てハンガリーに辿り着いたからここまで成功するためにはそれなりに苦労したはずだが、Tはそれをおくびにも出さない。「苦労自慢って一番醜悪だろ?」とTは言う。確かに。
 プラハは街全体が世界文化遺産で落ち着いた素晴らしい街並み。そして街を行き交う女性はハッとするような美人が多い。身長も高く、スタイルも素晴らしい。しかしながら我々の目的はそこにはなくて、色気より食い気、いや呑み気だ。
 チェコ人の平均ビール消費量は世界一だそうだ。年間180ℓといわれても今一つピンとこないが、大瓶300本といわれるとその量に驚く。予約したホテルにシェコダを停め、まずはビール工場見学。そこで出来立てのビールを二杯やっつけ、近くのビヤパブに入る。この日はビール、ビール、ビール。食事はパリに比べようもなくビールが前菜、メイン、デザートまで兼ねる。チェコビールはピルスナーが主流なので、日本人の舌(ノド?)にも合うと思う。結局日付が変わる時間まで二人で飲み明かし、ほぼ記憶がないままホテルへ帰り、爆睡したのだった。
【再びパリへ、そして姫と再会する】
  数時間仮眠を取っただけで飛び起き、早朝のフライトでパリに戻るべく空港へ向かった。Tはシェコダであと数日はチェコを廻るという。「プラハよりももっと小さな街の方が魅力的だよ。ビールももっと美味しいし」とTは言う。それなら還暦を迎える来年の誕生日はチェコで迎えたいな。
 二時間弱のフライトでシャルルドゴール空港に到着。スーツケースを預け、タクシーでパリ市内に向かう。夜の帰国便まで時間はまだ十分ある。最後に残しておいた美術館に向かうのが最初からの計画だった。
 パリ市内は相変わらずの渋滞でいつもよりは時間がかかったが、昼前に到着。タクシーから降り、扉の前に立つ。画家モローの私邸を改造した美術館だから看板がなければ気がつかないだろう。深く深呼吸し、重厚な扉を押す。入り口すぐそばに受付があるのは昔と変わらない。そして足を踏み入れた瞬間に姫の声でいっぱいになった。ここは姫が一番愛した場所だ。姫の声が聞こえないはずがないじゃないか。美術館のドアに手を掛けるのを一瞬ためらった自分を叱った。
 世那たちとパリにいた時、どこへ行っても姫の思い出が蘇ってきたが、京都で聞こえた姫の声は全く聞こえなかった。でも気にしなかった。だってここに来れば姫の声で満たされるだろうと思ったから。そしてその通りになった。
 この美術館の魅力はいくつもある。私邸を改造しているので、かつての住まいを彷彿させること、そしてモローの作品をたくさん鑑賞できること。しかし一番の魅力はおそらくかつてはダイニングルームだった場所にキャビネットがあり、その引き出しを引くとガラスケースに入ったモローの作品を納めてあるので、ガラス越しであるけれど手に取ってゆっくりと鑑賞できることだ。キャビネットに収められた作品は油絵もあるけれど、習作的な水彩画が中心だ。3年半前ここに来た時、姫は飽くことなく一つ一つの作品を長い時間かけ、じっくり眺めていたのを思い出す。モローの水彩画の多くには走り書きのような書き込みがあった。ジョーが「何て書いてあるの?」と尋ねると姫は目を凝らしながらまずはフランス語でそれを読み上げ、日本語に訳してくれた。いずれも短い書き込みで「もっと線は太く」「曲線ではなく、丸み」というたわいのない言葉だった。姫は小さな声でそれらを次々と読み上げてくれた。そして姫は閉館までキャビネットの前に座り続け、絵を見つめ続けた。
 そして今日、ジョーがキャビネット前の椅子に腰掛ける番だ。ゆっくりと額に入った絵を引き出す。すると姫がその絵の解説してくれるのは3年半前と変わらない。いやもしかしたら今聞こえているのは単なる幻聴なのか?そんなはずないじゃないか、こんなにはっきりと聞こえるんだから。そしてその声はずっと続いているんだから。ただ基本フランス語でジョーの日本語訳のリクエストは最初は3回に1回くらい、ついには全く応えてくれなくなったので、何と言っているか意味が分からない。文句を言いたくなったが、考えてみたらジョーがフランス語を理解できれば問題解決だ。なんだ、簡単じゃん。帰国したらフランス語教室に通おう。
 今年1月、あんな事があってから何度も何度も姫を見かけた。京都のあちらこちらで。例えば蛸薬師通や東洞院通で「姫!」と声に出して全くの別人を呼び止めたことは一度や二度ではない。東京駅のホームにも沢山の姫がいたし、意外なところでは世界遺産となっている天草崎津集落で見かけた時はで会うとは全く思っていないからこそ別人のはずがないと思ってしばらく追いかけてしまった。その度に大きな落胆を味わい、時には涙がこぼれそうになった。
 でもここでは涙は出ない。だって姫の存在をはっきりと感じられたから。姿が見えないのは残念だけれど、どこよりも姫の気配を感じることができるから。つまりここに来れば姫に会えるんだから。フランス語習得という目標もできたし、日本から近いとはいえないけど、姫に会いたくなったら十数時間のフライトで会える。そしてフランス語でおしゃべりを楽しもう。

 ナナ、いい女だったよ、君は。そして大好きだった、君を。
 
今、すべてを受け入れられたわけではないし、まだ心の平穏さを完全には取り戻してもいないだろう。何より、朝、目が覚めるといまだにナナ、君のことを考えてしまう。君は何というか分からないけど、3pの後の朝は君のことを考えないだろうと思ったけれど、ダメだった。そんなわけでどんなに目眩く夜であっても今のところ君のことを考えない朝がやってくるとは思えない。でもね、この世に残った者は生き続けねばならないんだよ。遠くない時期に君の所に行けるとしても。
 また会いにくるね、ここに。来年の誕生日はチェコで迎えるつもりだけど、その前日か後にここに来るね。それまでさようなら、大好きなナナ。 完

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