恋愛ワクチン　第百八話　善と悪（１２）

無意識に突き動かされて「トラウマの再演」を求める菜緒ちゃんと、これまた性欲のゾンビを自覚して開き直ったマックさん。
最悪の組み合わせだが、どこかに希望なり出口なりはあるのだろうか？
自分の中の「悪」＝性欲を自覚してから、菜緒ちゃんの解離症状には、特に気を遣うようになった。
毎回必ず「先回のデートのあと、解離の症状出た？」と尋ねている。
菜緒ちゃんもそこは正直に教えてくれる（と思う）。
もしも症状の頻度が多くなったり程度が強くなったりするようであれば抑えなくてはならない。
幸い今のところそういう兆候は無い。
そして菜緒ちゃんは、少しずつトラウマに付いて教えてくれるようになった。
聞き出すのはとても気を遣う。
無理やり心をこじ開けようとしてはならない。かえって心を閉ざしてしまうだろう。
出会って間もなくの頃は、幼児期からの親からの虐待と高校の頃の同級生女子からのいじめ、そういったことがトラウマだと語っていた。
何回か会った後、最初は教えてくれなかった中学時代の出来事を教えてくれた。
加害者は教師で、性暴力を受けていた。
最初は「衣服の上から性器を触られただけ」と語っていたのだが、少しずつ「実はハグされたりキスされたりフェラを強要されたりといったこともあった」と教えてくれるようになった。
マックさん「じゃあ、ハグやキスが初めてって言ってたのは、本当じゃ無かったんだね」
菜緒ちゃん「はい・・ですけど、自分から望んだ行為じゃ無かったんです」
マックさん「責めてるわけじゃ無いよ。無理矢理だったからノーカウント、『自分から望んでのハグやキスの初めてを買ってください』っていう意味だってことでしょ。そこは分かるよ」
菜緒ちゃん「はい・・ありがとうございます」
トラウマ体験とは向き合いにくい。
向き合いにくいからこそ、体験はそのまま無意識へと放り込まれる。
しかし、こうやって誰かに自発的に語ることはトラウマを消化して「普通の記憶」にするために必要なことだろう。
私に専門的な知識は無い。ただの性欲おじさんである。
と言うよりも、こうして菜緒ちゃんの過去の性的トラウマを聞き出すこともまた、自分の性欲を満たすためなのかもしれない。
今、これを読んでいる皆さんの中にも、そういう気持ちが存在するでしょう？
菜緒ちゃんがどんな性的被害にあっていたのか、そこが一番知りたいところではありませんか？
別に嫌味ではない。人間と言うのはそういうものだ。
菜緒ちゃんは私の過去のことも聞きたがる。
だからいろいろ話してあげた。
離婚のこと、子供のこと、自身が患った病気のこと。
私はおよそこういったことを他人には話さない。
自分の弱みなので、わざわざ開示したくないのと、言語化によって記憶が固定するのを怖れるからだ。
言語化せずに心に仕舞っておけば、いつか風化するだろう。
上に記したトラウマの処理法とは真逆だが、私のはただの悲しい記憶だ。トラウマではない。
菜緒ちゃんのためだ。仕方がない、いろいろ取り出して見せてあげよう。
自分で自分の傷をえぐっている感覚。
菜緒ちゃんからは時々独特なラインが来る。
菜緒ちゃん「大切な大切な△さん、産まれてきてくださってありがとうございます」
そんな書き出しからから始まる。
別の日には
菜緒ちゃん「おはようございます。本日も生きていてくださってありがとうございます」
とも。
交際中の女性からこんなラインが来たら、大抵の男性は引くんじゃないだろうか？
キモい。不気味。
私は菜緒ちゃんの背景を知っているのでそうは思わない。
こう返信してあげる。
マックさん「大切な大切な菜緒ちゃん。同じ言葉をそっくり返すよ。産まれてきてくれてありがとう」
マックさん「おはよう。菜緒ちゃんも今日も生きていてくれてありがとう。また楽しく一日過ごして生き延びようね」
おうむ返し。
菜緒ちゃんが送って来る言葉。それはすなわち菜緒ちゃん自身が欲しい言葉なのだろう。
私にはこういうことを察する能力がある。
こうして気遣っている目的は、菜緒ちゃんにさらにエロいことをさせるためだし、菜緒ちゃんの病気が良くなれば良いとは願うが、それは自分自身が後味悪い思いをしたくないというエゴからでしかない。
どうだろう？私は善だろうか悪だろうか？
―この世界には、善意から生まれる悪意がある。悪意から生まれる善意がある (コードギアス）―
悪意から生まれる善意。
「この世には善も悪も無い」という人もいるだろうが、私はそうは思わない。
「善」と「悪」、この二つを常に念頭に置いていなければ、人間社会が成り立たない。倫理としての無法地帯に陥る。
このままでは終わらせない。
なんとか善へと這い上がりたい。
この気持ちだけは性欲からでは無いはずだ。
もし私を悪だと決めつける人がいたら、私はその人に問いたい。あなたのお気に入りの交際相手が菜緒ちゃんのような問題を抱えていることが判ったら、あなたはどう対処する？
何もしないこと、関りを持たないこと。
関係を断つこと。
それは本当に善なのだろうか？
（続く）

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