恋愛ワクチン 番外編 過去を書き換える話(8)

小田渕と別れて街に戻り、伊奈は真紀と光を降ろすために、駅前の駐車場で車を停めた。

光が降りようとして、「あっ」と小さく声を上げて後部座席に戻り、ドアを閉じた。

ーどうかしたの?ー

ーちょっと、知り合いって言うか、ママ活のお客さんがいたもので。真紀みたいな若い女の子と一緒の所見られたくないんですよ。ほら、そこを歩いていく水色のスカートの人。ー

伊奈はその女性を見て、思わず声をあげそうになった。

懐かしい顔だった。

伊奈の元上司の妻になった志保だった。

驚く伊奈に気付いた光が声を掛けた。

ー知ってる女の人ですか?ー

ーうん・・知り合いの奥さんだよ。ー

ーああ、そうですか。確か旦那さんはお医者さんだって言ってました。
二人子どもがいて、生んでからは旦那さんとはすっかりセックスが無くなって寂しいんだそうです。ー


志保の夫は昨年、地方の医大の教授となって単身赴任したはずだ。

伊奈と別れて二十年経っている。

子どもにも手がかからなくなったことだろう。

ーもういいかな。じゃあ先生、僕たちここで失礼します。今日は本当に有難うございました。ー

光と真紀は、そっとドアを開けると、志保とは反対方向へと歩き始めた。

伊奈は別れの挨拶もそこそこに、志保から目を離さず、光たちが降りると、自分も車を降りて志保のほうへと早足で歩いた。

志保に声をかけるためだ。

昔、新婚旅行から帰ってきた志保が、伊奈をみつけて駆け寄ってきた、ちょうど同じ場所なのだ。

運命を感じた。

駅前の花壇には赤い彼岸花が咲いていた。

花言葉は「再会」「あきらめ」「情熱」「悲しい思い出」「思うはあなた一人」。

炎のように咲き、しかし静かに待ち続ける女性の立ち姿のようだ。

伊奈は、駅前で声をかけて、偶然の再会に驚いて戸惑う志保と、とりあえずラインを交換し、翌日、昼間のお茶のデートに誘った。

そしてカフェで落ち合って軽いランチを食べ、近況を報告しあった。

志保は、夫が単身赴任なのでいつも暇にしている、いつでも連絡して欲しいと嬉しそうに伊奈に語った。

それで次の週末、昔よく行った浜辺にまた二人で行ってみようということになった。

一週間後、伊奈は志保を乗せて、再び灯台のある岬へと、車を走らせていた。

十数年の時を経て、再び同じ道をドライブする。

お互い年を取ったが、面影は変わらない。

長くカールした細い髪の毛は、幾分つややかさを失ったが、日の光を反射しながら風に揺れている。

昔のままだ。

日が沈むまでにはまだ少し時間がある。

車を停め、松林を越えて、砂浜を歩き、あの日と同じスポットへと向かう。

自分の人生を、あの瞬間からやり直せるかもしれない。

白いレースの縁どりの清楚な趣味の服。

髪を覆うスカーフ。

若い頃の志保は、そばにいるだけで良い香りがしたものだ。

今は、その香りは薄らいでしまったが、志保は志保だ。

赤い太陽が水平線に隠れ始める。

伊奈は志保と並んで大きな流木の上に並んで腰掛けた。

志保の腰に手を回す。

拒まない。

全てがあの日と同じだ。

ー綺麗なところねー

ーそうだね。昔、いっしょに来た、あの日と同じだね。ー

ーあの日って?ー

ー君が新婚旅行から帰ってきて、街で偶然会って、そのあと僕の運転でここに来たじゃない。ー

ーそうだったかしら?ー

ーえっ、覚えてないの?ー

ーあまり、あの頃のこと覚えてないのよ。
結婚して割と早く子供が出来て、そのあと育児に追われていたし・・
ごめんなさい、あなたと、あの灯台近くまで行って、岩場に咲いていた白い花を取ってもらったのは覚えてるわ。
砕ける波を一緒に見ながら、あなた、ここから落ちたら絶対に死んじゃうね、って言うんで怖かったわ。ー


そういえばそんなこともあっただろうか。

ぼんやりと記憶にあるような気もするが定かではない。

きっと志保が結婚する前、二人が付き合っていて楽しかった頃の思い出だろう。

ーじゃあ、この浜辺で、真っ暗になるまで、肩を寄せ合ってたのって、君覚えていないの?
波が寄せては引いて、そのたびに白いしぶきが暗い闇の中に浮かび上がってさ。
ザブーンザブーンって波の音だけが響いて・・ー


志保は困った顔をして首をかしげる。

ーそんなことあったかなあ、だけど、ここはとても綺麗なところね。
きっと、私なりに辛い時期だったから、記憶を消しちゃったのかも。ー


そう言うと、志保は伊奈の肩に擦り寄った。

日は落ちて、間も無くあの時と同じ、暗い夜の闇が訪れて、あの時と同じように、波の白いしぶきが浮かび上がるのだろう。

あの日、二人は暗闇の中で一時間以上肩を寄せ合ったあと、車の中でキスしてセックスした。

志保が人妻になってからの、唯一の伊奈との交わりだった。

あの日の夜の秘密は二人だけのものだ。

少なくとも、ついさっきまではそう信じていた。

しかし、秘密の記憶を覚えているのが二人では無く、一人になってしまったとき、それは本当にあった出来事なのだろうか?
 
誰かが伊奈に、それは君の妄想だったんだよ、と言ったとしても、伊奈は反論が出来ない。

志保は、勇気を出してあの白いホテルに自分をさらってくれなかった伊奈が悲しくて、記憶を封印したのかもしれない。

そしてそれは年月を経て、風化して崩れて消えてしまったのだろうか。

伊奈にとっては悔恨で味付けられたある意味甘美な思い出だが、志保にとっては、悲しい出来事でしかなかったのだろう。

伊奈はもたれかかる志保を抱き寄せながら、今夜泊まる予定のあの白いホテルを見上げて途方に暮れていた。

あそこから人生をやり直そうと、ついさっきまで思っていた。

きっと自分と同じ思いで生きてきたに違いない、伊奈の記憶の中の志保と。

暗い夜の闇の中、波が打ち寄せては引く音だけが、繰り返しあたりに響いていた。

夜の海は人の心の奥底のようだ。

はっきりとは見えない。

しかし時折の波しぶきと月の光は美しい。

人の心には過去という海が広がっている。

そして人は過去に囚われて生きている。

真紀は伊奈の力を借りて過去を上書きしようと努力し、光は小田渕に過去の解釈の変え方を学んだ。

志保は悲しみを忘れるために過去の記憶を消した。

「未来は変えられる」という言葉があるがそれは嘘だ。

誰も未来を変えることなど出来ない。

変えることが出来るのは過去だ。

しかし、それによって人は未来を切り開くことが出来る。

なぜなら未来は過去から出来ているからだ。

(完)


いかがでしたでしょうか?
シチュエーションや人物像は個人の特定をさけるためにデフォルメされていますが、一つ一つのエピソードは実話に基づいています。

交際クラブで出会う男女は、それぞれに色々な事情を抱えて、辿り着いています。
そういった話を掘り下げていると、時に思いもよらない人生の勉強になることもあるというお話でした。
 

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