恋愛ワクチン 番外編 過去を書き換える話(7)

週末、伊奈は車を走らせて、再び灯台の見える半島の先へと向かった。

助手席には真紀、後部座席には光が乗っている。

松林が点在する。

江戸や明治の時代には、このあたり一帯は漁村で、その頃の街道の跡なのだろうか、旧道がところどころ曲がりくねって交差する。

緑色の海の向こうに島が見える。

人口数百人ほどの小さな島だ。

伊奈も昔、連絡船で一度だけ行ってみたことがある。

海風が強く、波止場の土産物店以外には、何も見どころも無いひなびた島だった。

島に行く連絡船が出る波止場近くには、駐車場と何軒かの料理店がある。

見上げれば、先日真紀と行った白いホテルが、岬の丘の上にある。

あのあたりは、バブル期にリゾート開発されたエリアだが、今日来ているあたりは昔からの古い町並みになる。

伊奈は車を停めて、三人で一軒の料理店に向かった。

連絡を入れておいたので、一人の老人が玄関前で待っていた。

老人は小田渕と言った。

以前は、魚の養殖をして水産加工の工場も経営していたのだが、引退し、少し年の離れた妻が営む、この小さな料理店を手伝いながらのんびりと暮らしている。

伊奈と小田渕が初めて会ったのは、アジアの某途上国だった。

伊奈は医師として、小田渕は養殖技術の指導のため、それぞれ別の支援団体から派遣されていた。

伊奈はその頃まだ若く、医師としての熱意に燃えてはいたが、プライベートな問題との板挟みで悩みを抱えていた。

何か自分なりの突破口を開けたいと、内戦の続くこの国への短期医療支援活動に進んで応募したのだった。

一方の小田渕は、現地の若者たちを相手にもう二年近く養殖の技術を教えて、現地に馴染んでいた。

小田渕は伊奈たちを歓迎して、海辺でバーベキューを催した。

酒が入って、遠い異国の地ではるか水平線を見ながら、伊奈はふと涙があふれて来た。

当時伊奈は妻子と別居中で、離婚は時間の問題だった。

伊奈は情熱をもって救急医療に身を捧げ、全てに最優先して頑張ってきたのだが、その結果何が残っただろうか?

患者たちには感謝されたかもしれないが、家族を幸せにすることは出来なかった。

それでも懲りずに、というよりも逃げるように日本を出て、こうしてはるか異国の地で見知らぬ他人のために尽力している。
自己満足、欺瞞、偽善も甚だしい。

こんなことをしている場合ではない、幼い子供たちとの時間をもっと割いて、自分の家族をまずは幸せにすることが、人として最優先であるはずだ。

お前は医者としてはともかく、人間として最低だ。

そう自分を責め続けてきた。

いちど堰を切った涙は止まらない。

号泣した。

慣れない異国の酒で、酔いがよほど回ったのだろうか、そのあとのことをよく覚えていない。

小田渕は初対面の伊奈をしっかりと抱きしめて、解る、自分にも離婚して長い間会っていない子供がいる、ここに居る人間は皆同じだ、綺麗ごとでは無く何かを犠牲にして悩んでいる、といったことを語った。

翌朝は強い二日酔いでふらつき頭痛がひどかった。

しかし、この一件で伊奈と小田渕は心が通い合ったのだろう、まったく職種の違う住む世界の異なる二人だったが、日本に帰国してからも、折に触れて交流は続いた。

小田渕は帰国してからも、貧しい異国の若者たちを自分の工場に受け入れて研修させるといったボランティアを続けていた。

小田渕自身、貧困の中で育って、高校にも行けなかったからと聞いていたが、大した人物だと伊奈は尊敬していた。

まともな大人と出会ったことが無いという光を引き合わせるにはうってつけだ。

伊奈はこの二人を対面させて、小田渕がどうやって光の心を開いていくのかを、間近に見てみたいと思ったのだった。

夏の終わりに近付いた岬の浜辺、昼顔がところどころに咲き残る。

昼顔の花言葉は「絆」。

地下茎が広がって繋がっているからだそうだ。

人の関係性に似ている。花と花は地下で結ばれている。

人の心もまた同じだ。

小田渕には電話でだいたいの話と、若者二人を連れていく趣旨は伝えておいた。

自分がデートクラブを利用していて、そこで出会った女性の繋がりだということも正直に告白した。

そのくらいの事情は、小田渕は丸ごと呑み込んでくれる。

小田渕は、海の見える個室に四人を案内し、数年ぶりに会う伊奈の顔を見て大いに喜んだ。

伊奈は小田渕を見て、年を取ったなと感じた。

聞けば、昨年手術をして胃を切っており、白内障の手術を来月に控えているそうだ。

小田渕の年の離れたかみさんの料理に舌鼓を打ち、窓の向こうに見える緑色の海を眺めながら、酒を飲んで伊奈と小田渕は昔話に花を咲かせた。

若者二人は聞き役だ。

自分たちとは違う世界の話が続くので興味深い。

ーそれで、ええっと、俺の両親の話をしようか。俺の親父もおふくろも、今思えば素晴らしい人間だったと思うよ。ー

小一時間歓談して和んだところで、小田渕が切り出した。

ー俺の家は貧乏だったけどね。だけど俺は親父を尊敬してるし、本当に感謝している。ー

ーちょっと待ってくれ。ー

伊奈が口を挟む。

ー小田渕さんが貧乏で苦労して、それでも頑張って事業で成功して、なおかつ海外の貧しい若者を支援してきたのは知ってるよ。
その心の豊かさっていうか、余裕みたいなものが、どこから出てくるんだろうと思って悩める若者を連れて来たんだ。
それが、貧乏だけど、俺は親に恵まれていたから、って話の流れになってしまうと、貧乏でかつ、親にも不遇だった光君は救いがなくなってしまうじゃないか。ー


じいさん、酔っ払っているようだ。

耄碌してしまったのだろうか。

昔伊奈が心を救われたと感じたのは気のせいだったのか。

伊奈は不安になった。

小田渕は伊奈の話を聞いているのか聞いていないのか、微笑みを浮かべながら、たばこに火をつけて一服くゆらした。

そして、真紀の若い豊かな胸を見て言った。

ーお嬢ちゃん、いいおっぱいしてるね。ー

照れ笑いしながら返す言葉に困っている真紀に代わって、伊奈が合いの手を打つ。

ー何だい、小田渕さん、巨乳好きだったの?ー

ー俺はね・・ー

小田渕がもう一度煙草をくゆらす。そして言葉を続けた。

ー重湯で育ったんだよ。重湯って判る?片栗粉を溶かしたやつ。
だからおっぱい好きなんだよ。
哺乳瓶で育った子供ってのは、皆おっぱい好きなんじゃないかな。


ー小田渕さんのお母さん、乳が出なかったってことかい?ー

ー八人きょうだいの六番目だったからね。おふくろも年取ってたし、栄養悪かったからなあ。
そこの桟橋から見える島あるだろ、あそこで俺育ったんだよ。父親漁師だったんだ。ー


ーそうだったの。それで今ここで住んでるってことか。ー

小田渕は納得して頷く。

ー俺、親父に殺されそうになったことあるよ。
酒癖悪くてさ。おふくろと喧嘩になると何でも投げつけるんだ。
酒瓶投げてきて、それがちょうど俺の頭の横の柱に当たってさ。
割れたガラスでざっくりと頭の皮が切れて血がだらだら流れて。
五才の時だったなあ。ここに禿げた傷痕あるだろ?ー


そう言って、小田渕は頭を差し出した。

幅一センチ、長さ五センチほどの傷跡が確かにある。

ー下の弟と妹は、居たっていうだけで俺見てないんだ。早くに死んだらしいんだけど。ー

小田渕は再びたばこを吸う。

ーひょっとしたら、間引かれたのかもしれん。とにかく貧しかったからなあ。ー

真紀も光も何も言わない。

伊奈も何と合いの手を入れていいのかわからない。

ーまあ、だけど。ー

小田渕は続けた。

ー総じて親父は立派だったと思うよ。
良い漁師でさ。魚を獲ると腰に結わえて上がってくるんだが、サメにその獲物狙われて、右の太もものあたりえぐられてたよ。
それでも毎日毎日漁に出て、俺たち六人の子供養ってたんだからなあ。ー


光が初めて口を挟んだ。

ーそうですよね。自分も、父親の話をすると、皆俺のことを、それは気の毒にって言うんですけど、俺は父親のこと嫌いってわけじゃないし、小田渕さんの気持ち、自分みたいな若い者に言われたら不愉快かもしれませんが、わかるような気がしますよ。ー

小田渕は頷きもせずに、一人語りのように話を続ける。

随分酒も回ってきたようだ。

ー俺、小学校じゃ遊んでばかりいたけど、中学じゃ一番だったんだぜ。
島の中学だから人数は百人もいなかったけど、それでも三年間一番
親に高校行きたいっていったら、県で一番いい高校受験して合格したら行かせてやるって言ってくれたんだ。
それで一生懸命勉強して、受験して、受かったんだぜ。
そしたら親父、何て言ったと思う?

「馬鹿野郎、そんな金、家にある訳無いだろ。井の中の蛙大海を知らずって言葉を知らねえようだったから、思い知らせてやろうと受験させてやったのよ」

って、俺が受かるなんて、思ってなかったってんだ。

「でも俺受かっただろ?」

って言ったら、また物が飛んでくるんだ。ー


伊奈は小田渕が家庭の事情で高校には行けなかった、しかし高校受験はしたし合格もした、という話を聞いたことがあった。

そんな事情だったのか。

ーだけど、親父も辛かったんだと思うのね。
可愛い子供なんだから、行かせられるものなら高校行かせてやりたかったと思うよ。
それを思うと、あの時、高校行きたいなんて無理言った自分が本当に未熟だった、親に悪いことしたなあって今では思う。ー


光が頷いている。

ー親父が死ぬときは膵臓がんでね。
鮫に太ももかじられても顔色一つ変えなかった親父が、痛い痛いってそりゃあ苦しそうでさ。
俺仕事終わると毎日病院に行ったよ。
神様なんていないと思ったね。
こんな貧乏で真面目に毎日漁に出て正直に人生勤め上げた人間に、なんでこんな仕打ちしなくちゃならないんだって。
おふくろの人生なんてもっと大変だった。
世の中結局は運なんだよ。
俺なんか、中学出たあとは、口減らしで奉公に出されたけど、最初は嫌々やってた仕事が面白くなってきて、自分でも工夫して大学の先生も感心してくれて、伊奈さんみたいなお医者さんとも知り合えたしなあ。
親父とおふくろが、俺のために自分たちの運を使わずに残しといてくれたんじゃないかって感じることあるよ。ー


窓の外には海が見えて、はるか彼方を貨物船がゆっくりと進んでいる。

午後の海はとても静かで、太陽の照り返しに波がきらきらと輝く。

夕日が沈む頃には、遠い水平線は、茜色に染まるのだろう。

伊奈は何とも言えない感情に揺さぶられていた。

小田渕は「俺は良い両親に恵まれた」と語ったが、その内容からは、決して良い両親とは思えない。

とくに父親は、酒癖が悪く、物を投げつけて小田渕に大怪我をさせ、約束を破って高校にも行かせなかった。

貧しかったからだといえばそうなのだが、恵まれたとは言い難い。

しかし、小田渕の頭の中では、何かが書き換えられて、良い両親であったということになっている。

それは、家族との生活の中で、親子なのだから、何か優しいこともあったのだろう、小田渕自身も忘れてしまった何かちょっとしたエピソードなり会話だったりするのかもしれないが、そういった良い思い出の印象を限界まで増幅して、飾り上げているようにも思えた

過去と言うのは、事実そのものは変えずに、これだけ自分に都合よく、解釈だけを変える事が出来るものなのか。

真紀がレイプされたトラウマを克服しようと、一生懸命に伊奈や光の助けを借りて、行おうとしている、いわば過去の上書き、それを小田渕は、長い年月の間にゆっくりと無意識のうちに成し遂げたようであった。

過去は変えられるのだ。

人の心にはそういう力がある。

生き抜くために。

光に必要なのは、父親は酷い人間だと、同情して悪口を言うことでは無く、光の父親にも良いところがあった、光は幸せだったのだ、と光の心の無意識に向けて言い聞かせ続ける手伝いなのだろう。

それによって過去の解釈、ひいては過去そのものが書き換えられ、ナチュラルヒーリング、自然治癒へと導かれる。

治癒とは言えないまでも、安定したバランスが働くようになる。

未来へと生きていくために一番必要なことだ。

未来は変えられない。

書き換えることの出来るのは過去だ。

そうすることによってのみ、光の未来は開けてくる。

小田渕はそのことを意識してかそうでないのか解らないが、とにかく、他人から見たときに、決して恵まれていたとは言えない互いの父親を肯定し合うという、暗黙のルールを共有して会話している。

そこにしか道は無いことを、小田渕は光に伝えたのだろう。

窓の外の貨物船は、いつのまにか視界から消えた。

あんなにゆっくりとした動きだったのに、気が付けばまるで人生のように過ぎ去っていた。

かすかな海鳥の鳴き声と、遠くの波の音が聞こえるようでもあるが、気のせいかもしれない。

それほどに静かな夏の午後だった。
 

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