恋愛ワクチン 番外編 過去を書き換える話(1)

「未来は変えられる」

という言葉がある。

本当だろうか?

もし変えられるなら、全ての人が幸せになっているはずだ。

書き換えるが可能なのは、実は過去ではないだろうか?

というよりも、人は無意識に過去を書き換えて生きている。

だから、記憶の中の自分は、実は本当の自分ではないのかもしれない。

そんなことを考えさせられる出会いがあった。

高校の同級生で医者になっているパパ活仲間の友人がいて時々飲みに行く。

彼にその話をしたところ、自分も最近似た思いをしたと経験談を披露してくれた。

医師ならではの視点であり興味深い。

二人の話を組み合わせて、適当にデフォルメして、小説風に仕立ててみた。

よかったら暇つぶしに読んで下さい。


光(ひかる)というゲイの若者の話から始めよう。

ゲイの話など興味ない、と言わないで欲しい。

このお話のキーパーソンである。

彼は人魚になった夢を見ることがあるそうだ。

水の中なのか空中なのかはわからない。

尾ひれがついているのかも判然としない。

はっきりしているのは下半身の存在の感覚が無いことだ。

三次元の中を泳ぎながら、ああ自分はなんて自由なんだと解放された気持ちで満たされる。

ある日の午後、光はスマホで近くにいるゲイの仲間を検索していた。

昔は新宿二丁目とかハッテン場といった特定の場所でなければ出来なかった出会いがアプリのお陰で簡単になった。

ゲイの人間が自分の位置情報を登録しておくだけでいいのだ。

光が通っていた大学の構内にも結構いた。

光は輪郭のはっきりした端正な顔立ちだ。

ボクサーのように時折鋭くなる一重の目。

耳には金色のピアスが揺れてきらめく。

ふと、自分に近寄ってくる男の気配を感じた。

スマホから目を上げると、浅黒い金髪の精悍な男性と目が合った。

見た目合格、まあいいだろう。

抱かれるのか抱くのかはまだ判らないが、今日はこの男を相手にしよう。

相手選びというのは重要だ。

履歴が残る。

ゲイの世界は結構狭い。

男女のように相手を独占し束縛しようとする傾向は薄いが、「あいつはあの男と付き合っていた奴だ」というレッテルは自分の値打ちとされる。

だからいくらヤリたくても誰とでもという訳にはいかない。

相手の見た目が良ければ、光は攻めにも受けにもなれる。

そもそも元々の光の性的対象は女の子で、初めての経験は中三のときの彼女とだった。

しかし当時から、ぼんやりとした違和感のようなものはあり、顔立ちの良い同級生の男子に惹かれるようになるまでに時間はかからなかった。

光が初体験をしたその彼女は名前を真紀といった。



光がアプリで相手を探していた頃、真紀は駅前の高層階のホテルのロビーで、初めて会う男と待ちあわせていた。

男の顔も名前も知らない。

聞かされているのは、四十代の医師で優しい紳士という情報だけだ。

十七時になったら真紀から先方に電話をかけることになっている。

十七時になった。電話をかける。

ーもしもしー

ーあ、はいー

ー〇〇クラブで紹介していただいた真紀と申します。ー

ーわかりました、今あなたの真向かいにいますよ。ー

真紀がロビーの真向かいのソファに目を向けると、グレイのスーツにオレンジの飾り縫いをした洒落たスーツの男性が微笑んで軽く手を挙げた。

ホテルのロビーにはいつも花が飾られている。

今日は赤いバラだ。

花の色は溶けて、見る人の心に浸み込み、初めての出会いを香り立たせる。

だからこういう待ち合わせはホテルのロビーが良い。

花が二人を取り繕ってくれる。

伊奈という名のその男性は真紀と落ち合ったあと、フロアの違うイタリアンレストランへと向かった。

軽いコースの食事をしながら自己紹介を済ませて歓談する。

ー大学生だっけ?ー

ーはい。〇〇大学に通っていますー

カトリック系の名門私大である。

育ちが良いのだろう。

清楚な花柄の服はセンスが良いし、ピアスはヴァンクリフアーベル、時計は女物のロレックス。

父親に買ってもらったのだろうか。

伊奈は救急医だった。

若い頃は不眠不休でほとんど病院に寝泊まりするくらいの勢いで救命に燃えて仕事をしていたが、四十才頃に体を壊してリタイアし、今は介護老人保健施設の雇われ施設長をしている。

離婚して独身なので遊ぶお金には困らない。

たまにこうやってデートクラブの女の子と食事し、気が合えばそのあとホテルの部屋で楽しむ。

熱意のある良い医者なのだが少々燃え尽きていた。

仕事に生きて来た人間なので、あまり今時の若い娘との会話に慣れてはいない。

テレビも観ないし、話題にはいつも四苦八苦する。

今日も、ときどき途切れる拙い会話のあと、伊奈は、失敗したか、アフターは無いかなと思った。

女の子によっては、上手に場を盛り上げるというか、自分語りをしておしゃべりしてくれるので、伊奈は相槌を打っていれば良い。

今日の物静かな育ちの良さそうなお嬢さんとは会話も弾まず、お食事デートで終わりだろう。

一応、デザートの際に声掛けしてみた。

ーこの後だけど、もしよかったら部屋をとるけど、どうだろう?ー

ーはいー

ーえ、いいの?ー


伊奈はちょっと驚いた。

こんな育ちの良さそうな美少女と、大して話も弾まなかったのにベッドイン出来るとは思わなかったからだ。



その頃、光は男と条件の交渉を終えて、男が住んでいるというマンションへとタクシーで向かっていた。

光が通っていた大学の近くだ。

タクシーの窓から見慣れた校舎が見える。

光は何の感傷もなく、はるかに遠い記憶のように眺めていた。

まだ退学して半年も経っていないのに。

光が通っていたのは理系の学部で、高校からは推薦で入学した。

奨学金を貰ってはいたが、生活費まではまかなえない。

それに加えて母親や弟たちへの仕送りもある。

ひたすらバイトに明け暮れたが、高校と違って課題も多く学業を断念した。

疲れ果てた、というのとは少し異なる。

自分の人生を始めようにも、そもそもスタートの門が開かない。

よじ登って越えるには高すぎる。

諦めた、という言葉は近いだろうか?

自分に人生というものが存在するのかさえ疑わしい。

それで夢を見るのだろう。

下半身が無く、ふわふわと泳ぐ夢。

光がゲイであることをはっきりと自覚したのは十八才のときだった。

真紀と別れて三年目の春、真紀が輪姦される半年前のことだ。
 

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