宇宙倶楽部女子との旅 中篇

【それは優しいキスから始まった】

 早朝、空港でピックアップしてから怒涛の1日が終わろうとしている。市場での朝食から始まり、戦争証跡博物館とクチトンネルでベトナム戦争のお勉強、その中で思いがけず、子供時代の記憶が蘇る。夕食はホテル内の洗練されたベトナム料理を堪能した。そして屋上のオープンバーでグラスを傾けつつ二人で今日一日を振り返る。でも一日の仕上げはやっぱりアレだよな。
 本日のお宿はその資本がフランス→日本→フランス→アメリカ→ベトナムと目まぐるしく移り変わったサイゴン川沿いにあるクラシックホテル。ベトナム近代史を見つめてきたホテルでもある。改装を繰り返し、現代風の設備を備えるが、基本設計がオールドスタイルだから、どこか古さを感じさせるのは否めない。と同時に歴史の重みを感じさせる造りと言い換えることも可能で、要するにこのホテルの評価は好みによるだろう。ジョーは悪くないと感じた。何よりサワコが喜んでいるのが嬉しい。
 先にシャワーを浴び、照明を少し落とし、ベッドに腰掛けてサワコがバスルームから出てくるのを待っていた。バスルームからはヘヤードライヤーの大きな音がずっと聞こえていて、サワコが髪の毛を急ぎ乾かしている気配が感じられる。と突然、ヘヤードライヤーの機械音が止まり、バスルームのドアが開く。すると薄明かりの中、バスローブを纏ったサワコがゆっくりとこちらに近づいてきた。過去同じようなシーンが不特定少数の女子の間で繰り返されたような気がするが、何度経験しても胸の高鳴る瞬間だ。既にジョーの興奮は最高潮に達していた。
  普段は纏めている髪をおろし、サワコは昼間とは全く異なる妖艶さを漂わせていた。乾き切っていないその髪の毛が薄暗い部屋の灯りに反射して光り、そのわずかな光がサワコをさらに官能的にさせる。やおらジョーの前に立つと、サワコは焦らすようにゆっくりとバスローブを脱いだ。鮮やかな赤を基調としたレースのランジェリーが現れ、薄暗い部屋の灯りに映し出されぼんやりと浮かんだ。とても現実世界とは思えない。しかもため息を漏らしてしまうほどの魅惑的でエロティックな肢体だ。ほんのりと匂う石鹸の香りもまたジョーの嗅覚を刺激する。そして興奮をさらに掻き立てるかのようにサワコはベッドに腰掛けていたジョーを立たせ、まだ湿っている髪の毛で頬を刺激しつつ、自分の唇をゆっくりと近づけたのだった。
  優しく短いキスだった。唇を合わせただけで、互いの舌は絡ませていない。その肢体とは異なり、決して官能的で情熱的なキスではない。しかしだからこそ、これから始まるだろう目眩く時間を想像させたし、実際そうなったのだった。
 官能的な夜はいつも優しいキスから始まるのだ。

【怒涛の一日in ホーチミン】

 早朝、空港にサワコを迎えに行った。到着口から出てきたサワコはサングラスを掛け、白いノースリーブのブラウスにジーパン、薄いベージュのカーデガンを羽織っていた。背が高くスタイルが良いからすぐに彼女だとわかった。ジョーが手を振ると、サワコも振り返す。こういう何気ない瞬間がジョーは大好きだ。
 まずはハグをする。頬にあたる髪の毛の感触とほんのりと香る香水の匂いがジョーの股間を刺激する。
「ジョーちゃん、機内食パスしたから朝食まだなの。まずはご飯食べに行かない?」
「そのつもりだったよ。観光も兼ねて市内の市場に行ってみよう」
  Grabでホテルを経由してサワコの荷物を預けた後、市内最大のローカルマケットへ。ここはお土産品から衣料品や日用品、食料品までほぼ何でも揃う。笑ちゃうほどフェイクな高級時計を売る店もある。観光客が中心だが、フードコートや生鮮食品食料品売り場は地元民の台所を担っている。つまり雑多な2000軒の個人商店が連なり、一歩中に踏み入れれば、ベトナム語、英語、時に日本語が飛び交う活気のある市場なのだ。
 市場の喧騒に戸惑いながらもジョーは飲食店が軒を連ねるフードコートにサワコを連れて行き、一番美味しいとされる店で注文をした。お椀を受け取るとグラグラ揺れるプラスティック製の椅子に腰を下ろす。椅子といっても日本の銭湯にあるような背の低い椅子でそれに合わせてテーブルも低いから屈んで食べる必要がある。しかもベトナムに限らず東南アジア文化圏では麺を音を立てて啜るのもお椀を持ち上げて食べるのも御法度だから日本人には食べにくい。麺を一旦レンゲに乗せて音を立てずにお椀も持ち上げずに食べるのが東南アジアスタイルだが、典型的な日本人であるジョーとしてはズズッと啜りたいところだ。しかし郷に従うのは異邦人の基本的なマナーでもあるとも思う。
  もう一つ文句?を言えばフォーは大好きだけど、南ベトナムのフォーは北と比べるとかなり味が落ちるとジョーは思っている。正確に比べた訳ではないので、断言はできないが、スープの味も異なる。日本でいえば関西風と関東風の出汁の違いといえばよいか。しかも南のフォーは肉の種類も少なく、一番好きなチキンはマイナーな存在だ。市場のこの店もチキンがなく、ジョーをがっかりさせた。仕方なくジョーはポーク、サワコは牛を選択したが、ハノイの方が遥かに美味しいと思った。でもサワコは「クイッティアオが世界一美味しい麺だと思っていたけど、フォーも悪くないわね」と言ったのがせめてもの救いだ。

【子供の頃、ベトナム戦争があった】

 腹ごなしをした後はお勉強?タイムだ。Grabで戦争証跡博物館へ。いかめしい名称の博物館である。そしてベトナムで戦争といえばアメリカとの戦争だ。この博物館はアメリカとの戦争で何があったかを示すことが大きな目的だからこの名称になったのだろう。建物自体は3階建てでそれほど大きくはないが、展示内容は非常に充実している。
 ベトナム戦争時、主に日本人の知識人が中心となって「ベトナムに平和を!市民連合(通称 べ平連)」を結成し、平和活動を行ったからなのか、この博物館は展示品はベトナム語、英語と共に日本語の解説もあって、ベトナム戦争の知識が全くなくてもある程度のことがわかる仕掛けになっている。この時点でジョーのホーチミン滞在は一週間ほどだったが、既にここには2回来ていた。だからサワコも是非連れて来たいと思っていたのだ。
 ベトナム戦争は1975年に北ベトナムの勝利で終わった。当時ジョーは小学5年生だった。特別世界のニュースに興味があった訳ではないが、北ベトナム軍の戦車がサイゴンの大統領官邸に侵入した映像のことはよく覚えている。アメリカへの留学経験があり、アメリカ人の友人しかいなかった父がそのニュース映像を見て泣いていたことがこの映像の記憶を忘れ難いものにした。そしてこの博物館を既に2回訪れたのはここの展示物が子供の頃の記憶をいくつも呼び覚ましたからだ。
  例えばトニーのこと。トニーは父のアメリカ留学時の親友だ。トニーは軍医としてベトナム戦争に参戦していた。おそらく例外的な待遇なのだろうけれど、トニーは一定期間ごとに休暇を取ることができた。休暇期間は世界中どこへでも行くことができ、チケット代は軍負担。そしてトニーは休暇先として日本を選択し、我が家で2週間以上過ごしたのだった。ジョーの記憶がスタートしたばかりの頃(当時は西宮に住んでいた)だったので、1960年代の末だっただろう。アメリカが本格的に参戦し泥沼化していった時期と重なる。
  覚えていることは多くないが滞在中の週末、トニーは姉とジョーを関西学院のチャペルに連れていった。姉もジョーも英語を喋れないから、我々の間でコミュニケーションは取れなかったはずだ。ただトニーが熱心に祈っていたのははっきりと覚えている。その間、ジョーは静かに待っていなければならなかったが、怖い怖い姉が横で睨みを利かせていたから、騒ぐことはできなかったことも覚えている。
 退屈しているジョーを見かねて牧師さんがキャンディをくれるようになってからはチャペルはキャンディーを貰いに行く場所となった。
  ジョーの記憶ではトニーはもう一度我が家にやって来てやっぱり関西学院のチャペルに通った。これはずっと後になって聞いた話だけど、父によればトニーはチャペルから出る時、いつも目を真っ赤に腫らしていたそうだ。姉も同じことを言っていたが、ジョーにはそのシーン?の記憶がない。「あんた、つまないことは凄くよく覚えてるのに、肝心なことは忘れるのね」と姉によく怒られたものだ。父も、トニーもそして怖い怖い姉も鬼籍に入ってしまったから真実は確かめようがないけれど。
 それにしてもトニーはチャペルで何を祈ったのだろう?いずれにせよ、ホーチミンの博物館で子供時代の記憶が強烈に蘇るとは思ってもみなかった。

【サワコの魅力は知的好奇心】

 サワコは1990年代末の生まれだから、当然ながらベトナム戦争についての記憶はなく、教科書レベルの知識でしかない。日本人の若い女子にとってはある程度の予備知識がなければここは全く楽しめない場所だろう。
 一方で後付けの知識だけれど、ジョーには比較的馴染みのある名前が並ぶ。べ平連の小田実、鶴見俊輔。戦場カメラマンのロバートキャパ、沢田教一、一ノ瀬泰造、石川文洋。雑誌LIFEのベトナム戦争特集号が詳しい解説と共に並ぶ。そしてアメリカ軍の枯葉剤による影響とされる奇形児の紹介。日本でも大きく報道された結合双生児であるベト君、ドク君。彼らは日本で診察を受けた後、分離手術をベトナムで受けた。
 ジョーはこの戦争について特別の知識がある訳ではないし、歴史的な事象について普段から考えを巡らしている訳ではない。しかしここの展示物はジョーの子供時代を思い出させる。様々な記憶が蘇ることで不謹慎だが懐かしい気持ちにさせた。
 一方でサワコはそもそも生まれていないのだから、記憶も何もあったものではない。ベトナム近代史は主に外国(フランス→日本→フランス→アメリカ)との戦いの歴史だから明るい気持ちになることもない。
 しかしサワコはジョー以上の熱心さで展示に見入り、オーディオガイドに耳を傾け、ジョーにあれこれ質問してきた。そうなのだ、サワコの最大魅力がこの知的好奇心にある。そしてそれはナナ姫を彷彿させるものだった。ジョーにとってナナ姫はスペシャルな存在だから、不遜な物言いだけれど、他のユニバース女子たちと比較したりしない。本音を言えば比較の対象にならないのだ。しかしサワコと一緒にいると姫の面影が散らついた。ちょっとだけのつもりが結局2時間以上博物館にいることになり、なんだか3人で博物館を堪能した気分になった。

【午後はクチトンネル】

 博物館を出た後、街中の屋台でバイミー(これもハノイの方が美味しい)を摘み、午後からはあらかじめ予約しておいたクチトンネルプライベートツアーへ。待ち合わせ場所にガイドのIさんがドライバーと共に登場し、流暢な日本語で挨拶した後、ホーチミン郊外のクチトンネルへと向かった。
 クチトンネルはベトナム戦争当時、北ベトナム政府のゲリラ基地であった。サイゴンからわずか60キロのところにゲリラ拠点があるのだから南ベトナム政府やアメリカ軍にとっては脅威だっただろう。このトンネルカンボジアまで通じていて総距離数は200キロにもなるそうだ。元々フランス統治時代に作られたもので、ベトナムが南北に分かれて戦っている間もこのトンネルは北ベトナムが支配していた。この地域には北ベトナムにシンパシーを感じている人々が少なくなく、ゲリラやスパイそして物資の輸送に協力するサイゴン市民も多かったっという。
 市内は相変わらずの渋滞で、車はノロノロと進む。思いの外道中は時間がかるからIさんと会話を交わすことになる。ありきたりの観光トークの後、行き先が行き先だけにベトナム戦争の話になった。
「Iさんはベトナム戦争が終わった時、おいくつだったんですか?」
「5歳でした」
「Iさんはサイゴン生まれ?」「そうですよ」
「戦争が終わった時、何か覚えていることありますか?」
「子供だったから、分かっていないこともたくさんありました。特にどうしてベトナム人同士で戦わなくちゃいけないのか、理解できませんでした。でも一番の思い出は食べるものがほんとに少なくていつもお腹を空かせていたことです。兄弟が多かったからぼーっとしてたら食べ物すぐになくなりますから。家族内は戦争が続いてました」
とIさんは笑いながら続ける。
「私は13人兄弟の12番目なんですよ」
 今度はジョーとサワコが驚く番だ。Iさんによれば当時はそれが普通だったそうだ。Iさんの記憶では近所で10人以下の家族はなかったという。

 クチトンネルには1時間30分ほどで着いた。公開されているのは一部でそれほど大きな施設ではないが当時の様子がよくわかるように戦争史跡公園として保存されている。ゲリラの拠点基地だから数万人のゲリラたちがトンネル内で生活していた。深さは場所によっては10mほどあり、空爆の時は深く潜ってやり過ごす。空爆というと何時間も続くイメージだが、Iさんによればせいぜい30分程度だったらしい。それでも狭い地下道の中で文字通り息を潜めるのは並大抵の精神力ではない。保存されているトンネル内に現学者は入ることができるので、ジョーも体験してみたが、5分と耐えられなかった。
 ここのもう一つの特徴はジャングル内に無数の落とし穴が施されていることだ。一旦落ちると網を仕掛けている場合は生け取り、そうでなければ網の代わりに設置された槍の餌食となる。アメリカ軍は空と陸から攻撃を仕掛けたが、どちらもうまくいかなかった。特に地上戦は落とし穴に落ちて戦死するアメリカ兵士が続出し、戦意を喪失させたという。物量では圧倒的な差があったのに北ベトナム軍がアメリカに勝利した理由の一旦が理解できたような気がした。

【ベトナムの現状】
 
帰りは夕方近くだったから、渋滞はさらにひどくなり、行きよりも30分以上時間がかかった。しかし車内ではIさんとの会話が弾んだので、全く退屈しなかった。話題は主にベトナム戦争後の日々の生活についてだ。サワコの勤める会社はベトナム進出計画があってそのリサーチのためにも興味があったようだ。
 前述したようにIさんは13人兄弟だが、お父さんが米軍関連施設に勤務していたので、上4人の兄弟はそのコネで戦争終了後、アメリカに移住できたそうだ。お父さんのアメリカ人ボスが身元引受人になったという。
 「兄たちは運が良かったんです」とIさんは言う」
 Iさんもアメリカ移住を望んだが、戦争終了後、長く国交を断絶していたから希望は叶わなかった。そこで一念発起して日本語を勉強し、今はベトナムで日本語学校を経営している。本来はツアーガイドの現場に出ることはないそうだが、他のガイドが出払っていて、Iさんの登場になったのだった。
 Iさんによれば戦争終了後、ベトナムは混乱を極めたそうだ。南ベトナムのエリート層は統一後、冷遇された。Iさんのお父さんもその一人だ。だから生活はずっと苦しかった。
 北ベトナム政府は戦争中、「ベトナム統一後はすべての土地を一旦政府帰属にした後、国民に分配する」と宣伝していた。一部の富裕層はこの宣伝に震撼したが、国民の多くは小作農だからこの政策に魅力を感じ、時にはゲリラやスパイとなって北ベトナム政府に協力したのだった。
  結論から言えば北ベトナム政府の土地の分配という約束は実行されなかった。それどころかベトナム建国の父であるホーチミンは戦争終結前に亡くなった。遺書を残していてその中で「戦争終了後3年間、無税にすること」と明記されていたが、この内容は長く秘密にされた。
  Iさんはサイゴン出身だからなのか、現ベトナム政府に対する拭難い不信感があるようだ。そこでジョーは究極の質問をしてみる。
 「ベトナムの社会主義政権は将来も維持されますか?」
 Iさんの答えは明瞭だ。
「数年内に崩壊しますね」
 Iさんはその根拠として現政権の不平等、不正をあげる。
  ベトナムは社会主義国だから本来、同一賃金で教育、医療は無料というのが原則だ。しかし近年経済格差が広がり、無料で受けられるサービスが小さくなっている。いい学校、高度な医療を受けるためには高額な費用がかかるから富裕層しか病院へ行けない。
  そしてベトナム社会、特に役所は許認可権を持っているから不正の温床となっている。
「ベトナムは賄賂天国ですよ」とIさんは言う。
 Iさんはその一例として昨年起きた汚職事件について話してくれた。
 昨年保健大臣が汚職で逮捕された。その金額は日本円にして40数億円。国家予算を使って購入した格安のコロナの検査キッドを数倍の値段で国民に有償で受けさせ、大臣氏は上前を懐中に入れたのだ。怒りを通り越して笑っちゃうとIさんは事の顛末を文字通り苦笑しながら話す。しかも逮捕された大臣氏が入獄している刑務所はキッチン、バス、トイレ、エアコン、メイド付き(おそらくセックスの相手でもあるとはIさんの弁)の特別室。これはもはや懲役とは言わないだろう。
「これで驚いていたらベトナムでは生きていけません。大臣氏、週末は自宅に帰っているんですよ。刑務所所長に賄賂を払ってですけどね」
 ベトナムは共産党の一党独裁の筈だから日本レベルで報道の自由は認められていない。だからIさんの話がどこまで真実か分からない。しかし今はSNSの時代だから一定の真実は含まれるのだろう。
 市内に近づくに連れ、渋滞は激しくなったので(ホーチミン市内には10万台以上のバイクがあり、市民の足になっている)予定よりも遅くホテルに着いたがそれだけIさんとの会話を楽しむことができた。ビジネスカードを交換し、少し多めのチップを渡して分かれた。これまでジョーは観光ガイドの存在をあまり認めてこなかったが、地元のことは地元の人に聞くのが一番だと痛感した一日となった。

最後はアレの話】

 夕食はホテル内の洗練されたベトナムレストランで食べ(美味しかったけれど、一般的なベトナム料理から比べると洗練され過ぎていてワイルドさ?に欠けた)バーでグラスを傾け後、部屋に戻った後、優しいキスから始まったアレは官能的な時間が流れ、佳境を迎えようとしていた。
 すでに互いの下着は全て剥ぎ取られていた。ベッドから始まり、ソファー、窓際へと移動したメイクラブは再びベッドに戻って最後の快楽を迎えようとしていた。。お互いあらゆる場所を繰り返し愛撫したから二人とも十分過ぎるほど高まっている。幾つもの体位を楽しんだ後、最終的にサワコが一番好きな体位である騎乗位にでその時を迎えることにした。ほんのりと汗をかいたサワコが上になってジョー自身にゆっくりと腰を落とす。短いけれどエロチックな吐息がサワコから漏れる。当然ながらロケット型の重力に負けていない乳房がジョーの目の前で揺れた。素晴らしい眺めだ。と同時に腰のグライドが加速されていき、サワコの吐息が激しくなり、様々な淫語を繰り返す。かなり前からジョーの限界はとっくに超えていたが、「まだダメ、もうちょっと」というサワコの声援?に励まされ必死に耐えていた。そしてサワコの大絶叫と共にジョーは解放され、二人はほぼ同時にクライマックスを迎えたのだった。
 素晴らしいセックスだった。サワコの魅力は知的&痴的好奇心にあると改めて思った。それは姫を連想させたから、切ないほど幸せな連想だった。明日から2泊はカンボジア、シェリムアップだ。きっと楽しい旅になるだろう。

この日ジョーは明日からの旅を夢みながらぐっすりと眠ることができたのだった。

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