恋愛ワクチン 番外編 過去を書き換える話(4)

街路樹の緑が眩しかった。
秋になればイチョウは黄色く色付いて、プラタナスが彩を添えるこ
季節とともに道行く人の服は変わっても、心は簡単には変わらない
誰もが過去という荷物を抱えている。
季節の移り変わりのように落ち葉となって、はらはらと散ってゆけ
真紀は大学近くのメンタルクリニックを受診した。
銀縁めがねをかけた思慮深そうな白髪交じりの医師が、頷きながら
白髪を染めていないのは、意外と若い実年齢を隠して貫禄を出すた
肌の色つやは良いし顔の皺も多くは無かった。
医師は語った。
ーまず、大切なのは、高三のときの不幸な出来事を、心の中に仕舞
こうして私に話すように、信頼できる人に状況をなるべく細かく説
次に、今あなたは、黒いバンや空き地の草むらを意識的に避けてい
勇気を出して現場にもう一度行ってみるのもいい。ー
ーあのう、私の場合、男性とセックスして・・体を舐められるかも
ー毎回ですか?ー
ーはい。ー
医者は少しだけ考えてから言った。
ーその場合はセックスをしばらく控えたほうがいいですー
ーえっ?ー
ーお付き合いしている方がいらっしゃるのであれば、理解してもら
ー彼氏は今いないのですが・・ー
ーそれならなおのことです。あなたはご自分をセックス依存症ではないかと心配していますが、
しかし、フラッシュバックが起きるような、強い追体験を繰り返し
真紀は、軽い睡眠薬と精神安定剤のようなものを処方されて、メン
少し、いや、かなり困っていた。
デートクラブを止めて普通のバイトだけで奨学金が返せるような気
毎月十万円の支給を受けているので、大学四年間で五百万円もの借
それに、せっかく育ちの良いお嬢さんを演じてきたのに、無駄にな
かといって、デートクラブのおじさんたちに事情を話して、セック
そこまで甘い世界ではない。
何より、真紀自身、セックスが好きなのだ。
ペニスが愛おしい。
この、セックスが好きで仕方がないと言うのが、依存症なのだろう
しかし医者は、あなたはまだ依存症ではないと言った。
そこははっきりと覚えている。
それならセックスを止めなくてもいいはずだ。
真紀は伊奈との二回目のデートの日が待ち遠しかった。
伊奈も医者だ。
何か知恵を授けてもらえるかもしれない。
夏の空は青く、誰かが綿をちぎって投げ上げたような、白い雲が漂
あの高さから見れば、人の営みなど、取るに足らないほどに小さい
その小さな人間の心の中にもまた、空ほどの大きな世界が広がって
週末、伊奈は仕事を早めに切り上げて、車を走らせていた。
懐かしい九十年代の音楽を流してご機嫌だ。
真紀との二回目のデート。
初回から二週間ほど経っていた。
今日は昔若い頃によく行った、灯台の見える岬のホテルまでドライ
八十年代のバブル期のリゾート開発の名残りが、伊奈が若い頃には
大学に入ると、多くの若者がお祝いに親に中古車を買ってもらって
道はそのままだが、今では店もほとんど無くなり、夜にはきっと真
昔は若者で賑わっていた白いホテルが、高齢者の団体客を頼みに何
夕日の美しさは変わらない。
むしろ人が居なくなった分、変わらぬ自然は鮮やかさが増したよう
ーごめん、ちょっと人が少なくて寂しいね。だけど、僕にとっては昔なじみの思い出の場所なんだ。久しぶりに来てみたくなってね。ー
ーいいえ、とても綺麗、初めて来ました。ー
真紀は嬉しかった。
修学旅行先の沖縄の青い海を思い出していた。
生活に余裕の無かった真紀は、ほかに旅行というものをしたことが
沖縄まで行かなくても、車で二時間ほど走るだけで、こんな綺麗な
伊奈もまた思い出していた。
学生の頃付き合っていた、志保という彼女との思い出のデートの場
彼女とは半年ほどで別れた。
お見合いで志保の結婚相手が決まったからだ。
相手は伊奈の大学の助教で、伊奈が卒業して医者になった後の伊奈
伊奈はまだ学生で、志保は年上だった。
志保の結婚式から十日ほど経ったある日、街で志保とばったり会っ
懐かしく、しかし人妻となった志保に声を掛けるべきか戸惑ってい
泣いている様だった。
ーどうしたの?ー
ー・・・ー
ーとりあえず、車そこにあるから乗らない?ー
黙ってうなずく志保。
伊奈は車を走らせた。
人気の無い場所に移動して車を停めて事情を聞くと、一昨日新婚旅
ーどこかに行きたい。お願い、私をどこか遠くに連れて行って。ー
そして伊奈は車を走らせて、半年前に志保と最後のデートをしたこ
今夜はこのまま、あの白いホテルにチェックインして泊まってしま
しかし無断で外泊したら、さすがに騒ぎになるだろう。
夕日が落ちてあたりが暗くなり、夜の海は波しぶきの白さだけが浮
繰り返し寄せる波の音。
志保と泊まろうか?
それとも送って帰るべきか。
あの夜からどれだけの数の波がこの浜辺に打ち寄せたことだろう。
時は流れて人は老いる。
しかし、あの時の志保の細くて長いしなやかな髪の毛の記憶は、伊
繰り返し打ち寄せる時の波に洗われて、志保の面影は大理石の人魚
伊奈は真紀と寄り添いながら、あのときの志保と同じ風景の中にい
違うのは自分が年を取ったということだ。
今夜は、あの時泊まらなかった白いホテルにこの娘と泊まろう。
そして志保を奪ってでも自分のものにすることが出来なかった自分
あの夜、勇気を出して志保と泊まっていれば、人生はきっと変わっ
伊奈はデートクラブの女の子と仲良くなると、決まってこの浜辺ま
まるで昔攻略できなかったゲームに繰り返し再挑戦して達成するこ
夜の海。
砕け散る波しぶきは、月の光のしずくのようだ。
または、海の中を泳ぐ人魚の白い肌が、水に透けて照らされている
貝殻は、かって生きて暮らしていた海の底を想うかのように、静か
海風が、かすかな磯の香りを、音楽のように漂わせる。
伊奈はホテルにチェックインすると、レストランで少し早い夕飯を
レストランのテラス席から階段を降りると、そこはもう砂浜で、ホ
伊奈はゆっくりと砂浜を歩きながら真紀に尋ねた。
ー精神科行ってみた?ー
ーはい。ー
ーそれで、どうだった?カウンセリングで少しはすっきりした?ー
ーいえ、あまり・・セックスをしないようにと言われました。ー
伊奈は立ちすくんだ。
ーえっ?そうなの?ー
ーはい、フラッシュバックを起こさないようにしなければならなく
伊奈は困った。
予想外だし、今夜はゆっくりと真紀と楽しむつもりだったのだ。
しかし、精神科の医者の言うことも、考えてみればもっともだ。
PTSDなのだから、過去の悪い記憶を強く想起させるような状況
その気で来ているのだから、伊奈としてはしっかり出来上がってい
今夜は寝苦しい夜になるかもしれないな。
ーなるほど。じゃあ今日は残念だけどセックス出来ないね。ー
ーいえ、お願いします。ー
ーえっ?ー
ー精神科の先生がそうおっしゃったので、私もずいぶん考えたので
それならば、セックスそのものではなくて、フラッシュバックがい
成る程、真紀の言うのも一理ある。
ー私、見かけはこうしてみすぼらしくない様に気を遣った格好をし
真紀はちょっと言葉を選んでから、ゆっくりと続けた。
ーそれに、伊奈さんはお医者さんでいらっしゃるし、優しそうな方
厚かましいお願いかもしれないのですが、ほかに頼れる人がいない
真紀の本音は、セックスできない生活なんてとても耐えられない、
しかしそんなことを伊奈に言えるわけがない。
伊奈は感動していた。
もっともな話だし、医者として頼られるのは、悪い気はしない。
精神科医の言うことが百パーセント正しく他に選択肢がないという
実は抜け道のショートカットのような裏技があるものだ。
ー了解だよ。僕も下心丸出しで恥ずかしいけれど、そのほうが嬉しい。
せっかくお泊りなのに、今夜は無駄になっちゃったかと一瞬がっか
真紀は微笑んだ。
このおじさんは良い人だ。
無理は言わないだろう。
男性によっては、セックスの際に泣き叫ぶ真紀をさらに痛ぶって声
しばらくは、伊奈とだけお付き合いしよう。
そして二人は部屋に帰り、二回目のセックスをした。
真紀は緊張した面持ちでベッドに横たわり、しかし無防備に下半身
伊奈は真紀に枕を抱かせて、脚を両手で開き、ゆっくりとペニスを
真紀はおびえたように小刻みに肩を震わせながら、じっと何かと闘
それとは対照的に、彼女の下半身はすんなりと伊奈のものを包み込
海辺に咲く浜木綿は、初夏には白い花を咲かせる。
狂おしい曲線のようなその花弁は、海に焦がれているようでもあり
浜木綿の花言葉は四つある。
「どこか遠くへ」
「あなたを信じる」
「汚れがない」
「清潔」
汚れがなく清潔であなたを信じてどこか遠くへ。
人は皆、心のどこかに浜木綿を抱いている。