恋愛ワクチン 番外編 過去を書き換える話(3)
涙は飾りになる。
美しいから。
人魚の涙は海の中できっと真珠に変わるだろう。
夢で流した涙は、心の中の小さなシャボン玉となって、漂い消えてゆく。
思い出の数だけ、過去の記憶の数だけ、人は夢の中でシャボン玉を飛ばし、涙の乾くのを待つ。
真紀は子供のころ喘息があって体が弱かった。
発作が起きると母親に連れられてよく救急病院に行ったものだ。
中学に入ってからはかなり治まったが、体育の授業はいつも見学だった。
幼馴染の光は、背が高く健康的な体躯で、病弱な真紀のあこがれだった。
教室の窓から同級生たちが校庭で球技をする様子を眺めながら、光やほかの男子のしなやかな体に、真紀は性的な興奮を感じるようになった。
光との関係は真紀から誘ったと言ってもいい。
母親が仕事で不在がちな真紀の家に、光は子供のころからよく遊びに来た。
真紀はスマホで見つけた刺激的な動画を見せて、二人で寝転がりながら小さな画面を覗いた。
一緒に遊ぶアイテムがゲームからアダルトビデオの鑑賞に変わったようなものだった。
真紀のふくらみ始めた柔らかそうな胸をすぐ横に感じているうちに、光はどうしても触りたくなって手を伸ばした。
真紀もまた、光の硬くなった股間を触り、その大きさにびっくりしながらも、手を離すことが出来ない。
二人は下着を脱いで光が真紀に覆いかぶさり、無言のまま互いの頬を紅潮させて初めてのセックスをした。
痛かったが夢中で続けて、光は真紀の中に射精した。
翌日、二回目はまだ少し痛かったが、翌々日、三回目には、真紀は快感で声を出していた。
一か月を過ぎると、初めての新鮮さが薄れ、光は真紀の誘いにたまにしか乗らなくなった。
光は、真紀と男性アイドルや同学年の格好いい男の子の話をするほうが好きだったし、胸がときめくようになっていった。
まだ自分がゲイであるという自覚はなく、真紀も他の男子とはちょっと違って女子トークで盛り上がる光を、幼馴染で話しやすいからだろうとしか考えていなかった。
高校に入って光はアパートで一人暮らしを始め、真紀には新しい彼氏が出来た。
定年間際の優しそうな化学の先生で、セックスの場所はいつも理科室だった。
隣の教室から聞こえる同級生たちの会話や笑い声を聞きながら、真紀と先生は非日常の快感に溺れだ。
このときも、誘いは真紀からだった。
真紀は人懐っこい猫のように化学の先生にまとわりつき、発覚したら職を失い人生が台無しになるというリスクを賭けて、先生は真紀を押し倒した。
真紀は抵抗することなく受け入れて、覆いかぶさる先生にしっかりと抱き付いた。
真紀にとってセックスは、猫が小鳥を獲るようなちょっとした狩りだった。
いつも真紀が誘って男が応えた。
高三の夏、レイプされるまでは。
夏の空気。
誰もが夏に思い出を持っている。
太陽と青い空の記憶。
それらは心に種を宿し、発芽したあとは蔦のように伸びて心に絡まる。
いつしか心と同化して見えなくなってからも、人は夏の記憶とともに生きていく。
伊奈は真紀との行為を終えて抱き寄せながら、まだ涙が乾ききっていない顔を不思議そうに覗き込んで聞いた。
ー大丈夫?ー
ーごめんなさい。ー
ーいつもこうなの?実は彼氏がいて、彼氏に悪いと思いながらしてるとか?ー
ーいいえ、彼氏はいません。ー
それは本当だった。
高三の夏の出来事以来、真紀は若い男が怖くなってしまった。
告白されても、ひょっとしてあの時の黒いバンの男ではないかと思うだけで心が拒否してしまう。
その一方で、体は男を求めた。
デートクラブに登録した目的は、もちろんお金なのだが、高校の先生のような年上の男性であれば安心してセックス出来るからでもある。
しかし、体を舐められると、フラッシュバックが起きて、レイプされたときの記憶がよみがえる。
膣は気持ちよいのだ。
ペニスが欲しい。
そんな真紀を、デートクラブの男たちは珍しがった。
元々お嬢様っぽい清楚な雰囲気で、しかし胸は大きく腰はくびれてスタイルは良い。
ベッドでは悲しそうに泣きながら、しかしよがり声をあげてペニスを求める。
男たちはまるで少女を強姦しているような気分になって、残酷な快感を覚えるのだった。
伊奈もまた、この妖艶な不思議な娘に魅せられてしまった。
しかし、彼がほかの男性と違っていたのは、医者である点だった。
専門は異なるが、どうも気になる。
何かありそうだ。
ー何か、昔辛いことでもあったのかな?ー
精神科の医者であれば、患者にいきなりこういう踏み込んだ質問をしないだろう。
カウンセリングの基本は、まずは傾聴であり、患者が自発的に話し始めるまでは、とにかく待ちに徹するべきだ。
しかし伊奈の専門は救急である。
どうしてもせっかちに事を急ぐ癖が抜けない。
ー高校生のとき、知らない男たちにレイプされたことがあるんです。それで若い男性とは出来なくなってしまって・・ー
真紀はデートクラブで出会った何人もの男性たちに語ったのと同じ説明を繰り返す。
最初は汚い女と軽蔑されはしないかと不安だったが、年上のおじさんたちは皆優しい。
それは大変だったねと慰めてくれたり、頭を撫でてくれたりした。
伊奈もまた、真紀の過去のデート相手の男性たちと同じように、驚きつつも納得し、傷付いた小動物をいたわるように真紀をそっと抱き寄せた。
ーしかしー
伊奈は切り出した。
ー同じ年頃の男の子と出来ないのは可哀想だなあ。ー
真紀は少し驚いて伊奈の顔を見た。
そんなことを言い出すおじさんはこれまで居なかったからだ。
伊奈はベッドの上で真紀を抱きながら天井を見上げて何か考えているようだった。
そして真紀の方を向いて言った。
ー精神科には行った?ー
実は、真紀はまさに精神科を受診すべきかどうか迷っていた。
真紀は、男たちとのデートを重ねるにつれて、開発され、感度が良くなっていく自分の体に戸惑ってもいた。
レイプの記憶が無ければ気にならなかっただろう。
しかし、あんな経験をしたにも関わらず、自分の体は男を求め、それも回数を重ねる毎に強くなっていく。
普通の女性の反応では無い。
自分はセックス依存症、セックス中毒なのではないだろうか?
ー驚きました。実は精神科に行ったほうがいいか迷っていたところなんですー
ー一度行ってみると良いと思うよ。全て語って吐き出すと楽になることもあるし、それを我慢して耐えていると、心身症と言って、行き場のなくなったストレスが体の病気となって出てくる場合もあるからね。ー
伊奈自身、ストレスの多い救急の仕事に根を詰めすぎて、過敏性大腸炎を発症して長く苦しみ、老人病院に転職して嘘のように治ってしまったという経験がある。
まさに心身症だった。