恋愛ワクチン 番外編 過去を書き換える話(6)

伊奈は真紀とのデートを重ねた。

それは独身男性である伊奈の性欲処理でもあり、その一方で医師である伊奈による「治療」行為でもあった。

それは真紀にとっても同じだった。

真紀が望んで伊奈に依頼したのだ。

真紀は耐えた。

フラッシュバックが起きている最中と言うのは、レイプされたときとまったく同じ感覚になる。

相手の男が見知らぬ顔となり、他にも複数の若い男がいて、自分を羽交い絞めにしているような気がする。

体を舐めまわされている感覚がそのまま蘇り、深い絶望に襲われて涙が止まらなくなる。

セックスしている目の前の相手は、信頼できる医師の伊奈だと自分に言い聞かせることで、フラッシュバックの世界にかろうじて引き込まれずに済んだ。

ある日、セックスという治療を終えて、真紀と添い寝しながら、伊奈は思いつきでふとこう語った。

ー二人での行為というか治療はここまでだけれど、ひょっとしたら、複数でなら、もっと慣れというか、状況の再現に近くなって効果が高くなるかもしれないなあ。ー

ー乱交ってことですか?ー

ー複数プレイだよ。
何人かの男性と女性は君一人というのが、いちばん状況設定としては近いけど、生々しすぎて、強いフラッシュバック起きちゃうといけないし。
デリヘルの女の子呼んで事情話して立ち会ってもらうっていうのはどうだろう?ー


伊奈は真顔だ。

医師のモードになっているときは、突拍子も無いようなことでも平気に口にする。

救急出身のせっかちな医師なのだ。

患者を治すためなら、使えそうな物は何でも利用する。

ーいくら知らない人といっても、同性に私のあの姿見られるのは嫌だなあ。ー


ーなるほど、じゃあ駄目か。ー

ー・・一人だけ心当たりがあります。ー

ーえ、そうなの?親友の女の子とか?ー

ーいいえ、幼馴染のゲイの男の子です。ー

真紀は光のことを伊奈に語った。

真紀は話しながら、こうも考えた。

光は心が折れて大学も中退してしまった。

表面上誰にでも愛想はいいが、慣れない相手に心を開こうとしない光の性格は、これまで、ろくな大人たちに接してこなかったのが原因かもしれない。

伊奈のように善良な、相手に親身になって寄り添おうとしてくれる大人もいるんだということを知ったら、光の中で何かが変わるかもしれない。

光の身の上話を聞いた伊奈は、真紀の予想通り、深く頷くと、光の「治療法」を考えるモードになった。

しばらくたって伊奈は語った。

ー僕の知り合いで、水産加工の小さな会社をやっている七十才過ぎのじいさんがいるんだけど、男の心を救うのが上手なんだ。
実は昔自分も精神的に助けられたことがある。
その人に一度会わせてみたらどうだろう。ー


ベッドは白い海のようだ。

男も女も人魚のように、布団の波間を泳ぎ回る。

あるいは静かに漂って、深い安らぎの中へと眠りに落ちる。

白いシーツに沈んで、夢の海の底で、思い出の小瓶を開けては涙する。

翌週、伊奈と真紀と光は、個室のある焼き肉屋で、顔合わせと打ち合わせをした。

ーはじめまして、よろしくお願いします。ー

光は礼儀正しく、愛想の良い笑顔で伊奈に挨拶する。

ー君が光君か。こちらこそよろしく。ー

真紀が双方に事情を話しているとは言っても、デートクラブで娘のような年齢の女性を紹介してもらって交際している中年男性の伊奈としては、全てを知られている若い男と会うのは少し後ろめたい。

金に任せていいご身分だ、しかしそうでもしないと女性にありつけないとは情けない、自力でナンパ出来ないからしょうがないか、と、内心やっかんで嘲笑しているのではないだろうか。

光も、表面的な愛想の良さとは裏腹に、心に壁を作っていた。

とにかく、もうどうでもいいのだ。

自分の人生にすら関心を失ってしまったのに、他人の人生など知ったことではない。

真紀の話によれば、強姦のトラウマを、優しいセックスで上書きして治癒に導こうという作戦らしいが、そんな大層な話でも無いだろうに。

あれはただの強姦プレイだったということにすれば済むことだ。

まあ、肉食べさせてくれるというから、その分は愛想を良くしてやろう。

ーそれで、早速なんだが、まずは状況認識を共有していることの確認だ。
真紀さんは、高三の夏に複数の若い男性にレイプされた際の心の傷で、セックスの際にフラッシュバックが起きてしまう。
そこで、まあ、僕がたまたま知り合って、フラッシュバックを起こさないような優しいセックスをすることで、少しずつ慣れていこうとしているわけだ。
かなり良くなったようなんだが、本人はまだ、本当に治ってきているのか自信がない。
別の人とセックスしてみるという方法もあるが、僕のように協力的なおじさんはなかなか居ないらしい。
それで、もう一つの方策として、彼女が信頼できる人、すなわち光君のことだが、光君に立ち合ってもらって僕がセックスする。
複数人が居るというのは、より高三のときの出来事に近い状況だから、これをクリアすれば、彼女の自信につながると思う。ー


伊奈は話しながら不安になった。

これは結局、自分が真紀を独占的にかつ他人に見られながらという露出趣味の変態セックスをしてみたいという潜在的願望の現われで、いかにも虫のいいエゴイスティックな提案と見透かされているのではないだろうか?

そんな不純な気持ちは全くないと言い切る自信が伊奈には無い。

本心というのは自分自身から一番見えない、例えて言うと背中のようなものなのだ。

しかし、真紀も光もふんふんと頷きながら美味しそうに肉を焼いて食べている。

ー真紀がいいなら、自分はいいですよ。だけど、横で何をしていればいいのかなあ。ー


ーそうだなあ。真紀さん、光君にどうしていて欲しい?ー

ー別に。そこに居てくれればいいよ。退屈ならゲームでもしててくれてもいいし。ー

ー光君に手を握っててもらうのはどうだろう?ー

ーそれいいっすね。頑張れ、って励ましてましょうか?(笑)ー

案外と和気藹々と話が進むので、伊奈はほっとした。

酒が入り、少し陽気になった光は、真紀に促されるまま、伊奈に自分の生い立ちから父親による虐待、貧しい少年期や苦労した高校時代、ゲイの目覚めなどを語った。

伊奈は、一つ一つ頷きながら聞く。

医師の習性でもあるが、伊奈は、真紀との関係でもそうであったように、関心を持つと損得忘れてのめり込む性格だ。

そして始めた仕事は、終わらさなければ気が済まない。

高学歴の人間にありがちな、発達障害的な執着癖のようなものかもしれない。

光は、不思議な感覚を覚えた。

自分なんかの話を、これまでこうやって身を乗り出して聞いてくれた大人など一人もいなかった。

そもそも話す気にもならなかったが。

なるほど、真紀が、なぜか安心して接することが出来る、信用の出来る人と言ったはずだ。

善意の人っていうのは世の中本当にいるんだ。

今や、伊奈の関心は、光のほうに移っていた。

自分のような、中流の家庭から経済的な苦労も無く、進学校から医学部に入り、医者として過ごしてきた人生。

それはいわば、井の中の蛙と言ってもよいかもしれない。

自分とはまったく異なる不遇な生い立ちで、それでも頑張って生きている人間もいる。

目の前にいる二十才そこそこの、この二人の人間は、自分よりもずっと深い経験を積んでいるようだ。

自分が救急で疲れ果てて落ち込んでいた時期、最悪のような気がしていたが、まったく甘かったのかもしれない。

彼らを知ることは、これからの残された短い人生をよりよく過ごすための鍵を与えてくれるような気がしてならない。

ー光君。君の話は面白い。
それで、もしよかったらだけど、僕の知り合いの爺さんで、男の心を救うことの上手な人がいるんだ。
僕が引き合わせるから、一度会って話をしてみてくれないか?
僕は二人がどう会話して絡むのかを見てみたい。ー


光は上機嫌で答えた。

ー俺なんかで良かったら全然OKですよ。また肉食べさせてもらえますか?ー

ーこんどの週末、君たちを乗せてドライブに行こう。
その爺さん、今は海辺に住んでいるから、美味しい魚を食べさせてあげるよ。ー


三人は歓談しながら打ち解けていった。

店の外は夜の帳が下りて、月の無い夜、星が空に煌めいていた。

星の光は天の川に流れて、地平線で海へと続き、波の割れるしぶきに乗って再び空へと帰っていく。
 

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