質素に真面目に生きてきた。
勉強・仕事に打ち込んできた。
けれど、心の奥に愛人願望があることに気がついた45歳女の記録。
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登録
新年のお祝いムードが残る1月初め、あるサイトに登録した。
いや、してしまったという表現が正しい。
真面目にコツコツ生きてきた、バブル時代を知らない世代らしく地味に生きてきた私が、この年齢になってパパ活サイトに。
今思えば完全に衝動的、簡単に言うとメンタルがおかしかったのかもしれない。
それでも初めて覗く世界は、私の好奇心を駆り立て、更に封印していた遠い記憶を蘇らせた。
初めての「パパ」
断っておくが、私は美人ではない。
悩殺ボディの持ち主でもない。
どこにでもいる普通の化粧っ気のない真面目ちゃんが、私である。
大学も学年が進むにつれて様々な講座がふえ、当然のように講師陣(教授以下複数)との関わりが増えた。
そんな中で、私の日常に "スッと" 入ってきたおじ様たちがいた。
今思うと…今の流行りで言うと「パパ」だったのかもしれない。
A教授
2回生にあがる頃、あることがきっかけで夕飯に誘って頂くようになった。
当時の彼より頻繁なほどである。
紳士的な教授は必ず他に誰かを同席させ、決して2人にはならなかった。
が、学生が到底行けそうにない店や隠れ家的な店、とびきり旬のものを提供してくれる店、時には遠方の予約のできない店など、今思えばもっとしっかりと味わえばよかったと後悔する店ばかりであった。
さらに、空き時間は図書館で読書か勉強という私を、教授室の隣の部屋に連れて行き「ここを好きなように使いなさい」。
職権乱用も甚だしいが、なぜか秘書もその他の講師陣も何も言ってこなかった。
詮索も介入もなく、ただ近くで置いておかれた状態だったが、思い起こすとA教授から頂いたものは有形無形に膨大だった。
教授の本心は、お亡くなりになった今では聞くすべもないが、当時の私はとにかく教授が整えてくれるあらゆる環境が心地よく、深く考えずに享受していた。
2番目の「パパ」
さらに4回生になり進路を考え始めた頃に登場するのがB教授。
他学生と同様に教室への勧誘から始まったが、いつしか当時普及し始めた携帯電話を持たされた(教授名義)。
ちょうど学年の各種委員をしていた関係で、わたし的には非常に便利ではあったが、B教授はいつも控えめに「美味しい店をみつけたよ」と連絡してきた。
当時、先に社会人になった彼に放置され、空き時間のほとんどを勉強に充てていた私は寂しさもあり、B教授の誘いにウキウキと乗っていた。
B教授は二人きりを好んだが、必ず現地集合で帰りは先に下宿先まで送ってくださった。
結局B教授の教室配属にはならなかったが、この変な関係は卒業まで続いた。
とにかく紳士的で眼差しが優しく、当時から私がこだわる "胸板の厚さ" と "二の腕の逞しさ" を併せ持つ、言ってみれば "どストライク" な紳士だった。
何故おじさま方と連日のように会っていたか
教授陣が、30歳も下のひよっこ相手に何を得られたかは分からないが、私はというと自分の勉強する領域でテッペンにいる方の思考や物事の運び方、決断力、普段のやさしさの中にある仕事へのこだわりや厳しさ、といったものに触れることができる時間がこの上なく幸せで、ずーっと続けばいいと思っていた。
尊敬する人が自分との時間を共有してくれる幸せというものは、何にも替えがたい。
それは今も同じである。
すごいと思える相手と一緒の空間に居られて、時間を共有出来て、様々な知見を与えてくれる…
相手の眼を見たら、見返してくれる…き~っ幸せ、そう思う。
それから
卒業して他県で就職した私は、下宿先に帰る暇もないほど仕事・勉強・修行に明け暮れていた。
だけど、そんな中でもまた、他業種の「テッペン」の方が同じような「パパ」的存在で登場した。
どのパパもご飯だったり、美味しいケーキだったりの時間でずっとお互いに喋るだけだった。
結婚まで続いたパパたちとの関係も、出産や育児に振り回されているうちに遠く遠くの記憶となり、いつしか無意識に封印されていた。
我が家には不釣り合いなバカラや備前焼の数々が、辛うじてその当時を思い起こさせる程度であった。
いまさらナゼ
パパがいない生活、世間一般的な幸せな生活を送る中で、ビジネスで、またプライベートで、成功者の皆さんにお会いすることが多々あった。
いろんな業種の経営者や起業して成功した方、話を聞いているだけで完敗な気持ちにさせられる社長…
やっぱり、尊敬できる人って最高だわ。
そんな毎日を送っていた、満たされていた自分が、まさに青天の霹靂!!
メンタル追い込まれて、現実逃避か?
いや、支えてほしい…そんなこんなで登録してしまった。
そこから45歳おばさんの世界が広がりはじめた。