恋心売ります 第5話

梨子ちゃんは梨の妖精です。
恋をしたことも、誰かに梨の実を食べてもらったこともありません。
そんな梨子ちゃんですが、オルチャード村で梨の実を売ることにしました。
梨子ちゃんの育った村は、街道から離れていて、人が通ることはほとんどありません。
梨の実を誰かに食べてもらって生気を分けて欲しかったし、出来れば「美味しい」とも言ってもらいたかったからです。
梨子ちゃんは、オルチャード村の片隅で、小さなお店を開きました。
「私は果物を誰かに食べてもらったことがありません。美味しいかどうか自信は無いのだけれど、良かったら試してみてください」
そんな控えめな言葉で、しかし彼女なりに一生懸命に心を込めて、旅人さんたちに呼びかけました。
しかし旅人さんたちは誰も振り向いてくれません。
「私の梨の実は売れないのかしら」
梨子ちゃんは悲しくなりました。
1人の旅人さんが梨子ちゃんの梨の実に興味を持ちました。
「美味しそうな梨の実だね。僕が初めてのお客になってもいいのかな?」
「はい、よろしくお願いします」
旅人さんは梨の実を頂きました。そして言いました。
「まだ若くて甘みは少ないけど、とても香りが良くてすっきりしてるよ。僕は好きだな。また近くに来たら寄るね」
梨子ちゃんは、初めてのお客様をもてなすことが出来て安心しました。そしてとても幸せな気持ちになりました。
しかし次のお客様はなかなか現れません。
旅人さんたちは、行き交いはするのですが、みんな色鮮やかで目を引く果物の方に行ってしまいます。
梨子ちゃんもお化粧やお洋服を替えたりして工夫するのですが、旅人さんたちの心には届かないようです。
そんなある日、初めての旅人さんがまた訪れてくれました。
「お久しぶり。あれからどう?梨の実はたくさん売れたかな?」
梨子ちゃんは悲しそうに答えます。
「いいえ、あなたが買ってくださったあとは、まだ新しいお客様がいらっしゃらないんです。今日は来てくださって本当にありがとうございます」
「そうなの?確かに甘みは少ないけど、僕は好きだけどなあ」
梨子ちゃんは考えました。
「私はこれまでなるべく多くの人に私の果物を食べて貰いたい、そして褒めて欲しいと思っていた。だけどそれは間違っていたのかもしれない。誰か1人が美味しいと言ってくれること、それが一番大切だし、それで十分じゃないのかしら」
梨子ちゃんはお店を閉めました。そして旅人さんと一緒に村々を回って、旅人さんのお仕事のお手伝いをすることにしました。
旅人さんは梨子ちゃんを可愛がってくれます。梨の実をとても美味しそうに食べてくれて、お店で会っていたときと同じように生気を分けてもくれます。
「多くの人の心に刺さる必要なんてない。1人のお客様が果物を美味しいと言って生気を分けてくれれば、それで良いんだわ」
梨子ちゃんはこれからもこの旅人さんのそばに居ようと思いました。
そんなお話です。
ただ、このお話は、その旅人さんから聞いたものなのです。
梨子ちゃん本人から聞いたものではありません。
梨子ちゃんが本当はどんな風に考えているのかは分かりません。
ひょっとしたら、梨子ちゃん自身にも分からないのかもしれない。
というのも、若い子というのは経験が未熟です。新しい出会いや出来事があれば、すぐに心変わりすることでしょう。
それを私たちは「成長」と呼びます。若い女の子というのは、心変わりするのではなくて成長するのです。
一方で旅人さんは十分に歳を取っています。心が成長するなんてことはもうありません。
旅人さんに出来ることは、梨子ちゃんのほんのひとときの腰掛けになってあげることだけです。
恋心の香りはするけれど、決して恋の甘さを味わうことは出来ない果物。
実が熟した頃には、それは旅人さんが思い描いていたような果実では無くなっていることでしょう。
この先、梨子ちゃんは成長して、旅人さんの元を離れようと決める時が来るのかもしれません。
決して追いかけたり、そのことで心を痛めたりしてはいけない。
恋心の香りのする果物を食べても良いのだけれど、本当の恋をすることは出来ません。
なぜなら相手は蝶のさなぎであって、蝶では無いのだから。
さなぎの季節は数ヶ月かせいぜい1年か2年くらい、長くても4年くらいでしょうか。
長い人生のほんのひとときの姿です。
旅人さんもそのことは分かっています。それでも感じずにはいられないのです。「梨子ちゃんはこれからもこの旅人さんのそばに居ようと思いました。」と。
まだ若くて甘みの少ない、しかし爽やかな香りする梨の実の精のお話でした。








