女の中のこだわりを発見することが、深層心理を理解するキーになる 5

西洋の古い諺に、「女はつねに心に喪服をまとって男と接している」というものがあります。 男の前ではなかなか本性をあらわにしない女性の謎めいた心の内を言い表わした言葉なのですが、 前項でも触れた〝仮面"といい、パブリックとプライベートの二面性といい、たしかに女性は男の前で、ことさらに自分の心に”喪服”をかぶせ”謎”でつつもうとする習性を強く持っているように思います。

しかし、こうしたミステリアスな女性の深層心理も、前項の「第一印象」からもうすこし踏み込んで、彼女がどんなことを気にし、何に神経をとがらせているかを的確につかみとれば、案外容易に理解することができるものなのです。 つまり、彼女の行為の中にあるこだわりを発見することによって、彼女の意識の根底にある心理的な負い目やプレッシャーの要因を探りあてるというわけです。

深層心理とは、こうしたもろもろの心的要因によって形づくられているわけですから、その要因の発見こそが、深層心理を解読するキーになるのはいうまでもないことです。 一例を挙げて見たいと思います。以前学生時代に読んだことがある、都会的センスあふれる小粋な短編小説雑誌として知られた『ニューヨーカー』の一編にこんな話がありました。

物語の主人公は、敬虔なクリスチャンの家庭で育ったうら若い女性です。彼女は都会のアパートで一人暮らしをしながら、オフィス勤めをしていました。 美しいこの娘には言い寄る男も多いのですが、なぜか彼女は一定の距離を置いてしか異性とはつき合おうとしませんでした。

まだ誰一人として、彼女の部屋に足を踏み入れた男性はいないのです。 つまり、彼女は性的にあまりにも潔癖すぎるところがあったのだと思います。そんな折、ある画家志望の青年が彼女に好意を抱き、足繁く彼女のアパートに通いつめるのです。

とはいっても、青年が足を踏み入れられるのは彼女の部屋のドアの前までで、そこで青年はドアの内側の彼女と、人生や哲学、宗教などのとりとめもない立ち話をするのが常だったのです。 しかし、当然のなりゆきとして、青年はそんな、はがゆい二人の関係に業を煮やしはじめるわけです。

そして、あるとき、青年は彼女に部屋に入れてくれるように懇願し、それを拒絶されるとついに自分の感情を爆発させて、激しく自分と彼女とを隔てているドアを蹴破ろうとするのです。 結局、青年は彼女との恋を断念し、「君はまだネンネだ。古い道徳律を突っかい棒にしたこのドアの内側は、君の幼い心の世界そのものだ」という捨てぜりふを残して去っていく、というのがこの物語の顛末です。

■女性の性に対する意識と行動とのギャップ

ここまで読んできて、もうおわかりのことだと思いますが、この物語の女主人公が男性に対して反欲望的な態度をとるのは、明らかに幼児期にクリスチャンの家庭で厳格に育てられたという体験が大きな要因として働いているのです。

つまり、幼児期のきびしい道徳的なしつけが、無意識のうちに彼女の心をしばりつけ、それが男性と接する際に、性へのこだわりとして、ひょっこり表面に頭をもたげてくるわけです。 このように、幼児期に形成された性格や気質は、その後の体験によってまったく消し去られてしまうわけではなく、成長後も心の奥底で引きずっていることが多いものなのです。

こうした点から考えれば、くだんの女主人公のように性的に潔癖すぎる女性は、幼児期にきびしいしつけを受け、それが心理的な負担になっていると推測する十分な根拠があるわけです。 たとえば、ポルノ雑誌やセックス記事を見ると、

あたかもそれが不浄なものであるかのようにすぐ目をそむけてしまう女性がいますが、こうした女性たちの振る舞いも、さかのぼれば幼児期のしつけや体験に根ざしていることがけっこう多いのではないかと思います。 こうした女性の性に対するこだわりに関しては、アメリカの心理学者シーモア・フィッシャーがつぎのような興味深い実験を行なっておりました。

数人の女性に集まってもらい、まず自分の肉体について、各自どのようなイメージ、感情を持っているかを語ってもらうのです。 つぎに身体検査の名目で、裸になってもらい、シーツ一枚にくるまっている様子を観察したのです。そのあとで、彼女たちにふだんの性生活の様子を聞き、裸とオルガスムスとの関係を明らかにしようとしたのです。

その結果、裸になっても、別に不安を感じることなく、平穏な態度をとりつづけることのできた女性は、セックスを十分に楽しんでいることがわかったのです。 逆に、裸になるとソワソワと不安げになり、落ち着きのない態度を示した女性ほど、オルガスムスに達した経験が少なかったのです。

つまり、日常の性生活において満足を感じている女性にとって、裸はむしろ誇らしいものであるのに対し、 たとえ産婦人科医のまえでも裸になることに神経質になる女性は、性的に満たされていない場合が多いというわけです。

「裸」にこだわりを持つというのは、一種の性に対する潔癖感の麦われとも見えるのですが、 その深層心理にはやはり、日常体験における性への抑圧、不安、恐れといったものが要因として働いているというわけです。同じような意味で、ゲイバーに行きたがる女性というのも、性に対する不安、男性に対するおそれを強く抱いている女性たちといえるだろうと思います。

こういう女性は、男と一対一でつき合うことを恐れ、それを避ける格好のシェルターとしてゲイバーを利用していると考えられるわけです。そこには男でもなく、自分の競争相手の女でもないゲイたちがいるわけです。 そうした世界は、性に不安を抱く女性にとってはたいへん居心地のいい場所であるはずです。

結局、女性が性に潔癖でありすぎたり、こだわりを持っている場合には、暗にセックスに対する不安、臆病さを訴えていると読みとるのが妥当だろうという結論になるのです。

■女性の反欲望的態度は、意識下の欲望の強さの表われ

ただし、このように女性が男性に対して反欲望的な態度をとったとき、注意しなければならないのは、表面上の反欲望的態度がそのままストレートに心の深層部分での欲望の小ささを意味することにはならないということです。

むしろ、外側の見える部分での反欲望的な態度が顕著になればなるほど、意識下の欲望は大きくふくれあがるのが普通なのです。ジョセフ・ケッセルの名作『昼顔』のヒロインは、 幼児期に見知らぬ水道配管工に性的ないたずらをされ、それがもとで結婚後も夫と性交渉を持たないでいる女性が描かれておりました。

つまり、そのいまわしい幼児体験が、彼女のトラウマ(精神的外傷)になっているわけです。 そのために彼女は日常生活では貞淑な妻然として振る舞っているのですが、彼女がそうした態度をとりつづければとりつづけるほど、深層部分での性の欲望は果てしなくふくれあがり、いつしか彼女は異常な白昼夢に耽るのが日課になるのです。

そして、ついにはその欲望が抑えきれなくなり、街の売春窟に足を運ぶようになってしまうのです。この例でもわかるとおり、表面に表われる「反欲望」の態度と深層部分における「欲望」の意識は、 ちょうど反動関係にあるので、このことは「作用」「反作用」の物理法則をあてはめて考えるとよくわかるのではないかと思います。

壁にボールをぶつけると、そのボールは当然勢いよくはね返ってくる。 そしてボールをぶつける勢いが強くなればなるほど、はね返ってくるボールの勢いもますわけです。女性の心理と行動のあいだにもこれと似た関係があり、深層部分にある欲望に強くひかれればひかれるほど、 表面上の行動はそれとは逆の方向に強く向かう傾向が往々にしてあると思われます。

したがって、表面的に「反欲望」の行動のベクトルが大きければ大きいほど、深層部分での「欲望」のベクトルも大きいと推測できるわけです。 特にその欲望が、本人にとって他人には知られたくないと意識している欲望である場合は、表面上の「反欲望」のベクトルはさらに大きくなわけです。

ということは、表面に表われる「反欲望」的態度の激しさは、本人がどれだけその「欲望」を他人に知られたくないと思っているかで決定されるといっても過言ではないということになります。 いわゆる「過剰反応」というのが、まさにそうした欲望を秘匿せんがための自衛行為の一種といえるだろうと察します。

身近な例でいえば、電車の中で男が隣りに座ると露骨に顔をしかめたり、さっと腰をずらして離れていく女性がいます。 まるで男の肌にふれると伝染病が移るとでもいいたげな風情で、性的過敏を絵にかいたような女性です。

これはもちろん、表面的には男に対する警戒、拒否の反応なのですが、深層心理の部分から見れば、男への強い関心の裏返しの表現でもあるわけです。 こうした女性は、男が隣りに座った際、そのまま平然としていると自分がもの欲しげに見えるのではないか、はしたなく見えるのではないかと、妙に気を回す傾向が非常に強いのです。

つまり、それだけ男性関係に強い執着、こだわりを持っているわけで、その心中を悟られまいとするあまり、こうした頑なな行動をとってしまうことになるわけです。 さらにもっと極端な場合には、男の胸毛やヒゲから動物を連想して、男がそばに来ただけで、条件反射的に拒否反応を起こすという女性もいます。

こうした男性を感じさせるものに対して、 生理的嫌悪感を覚えるという女性の中にも、逆に男に対して性的な関心を持ちすぎているというケースが少なくないのです。

これらの女性たちの多くは、前述したように、幼少期からつねに性をタブー視し、 性的関心を抑圧されてきたと考えられる場合が多いのですが、彼女たちはいったんその抑圧やタブーから解き放たれると、逆に性的関心が普通の女性以上に強くなってしまう場合が多いようです。

ところが、まだ深層部分では、男に関心を持つことが罪悪だという無意識的痕跡が残っているため、自分が男に性的関心を持っていることを隠そうとして、ことさらに男に対する嫌悪感を他人に示そうとするわけです。

■女性のこだわりは、言葉のくり返しにとくに顕著にあらわれる

このように、女性の行動の中から女性がこだわっているものを目ざとく発見すると、今まで見えなかった相手の心の裏側が眼前に広がってくるものなのです。 この表面に表われる女性たちのこだわりは、言葉のはしばしにとくに顕著に顔をのぞかせるのです。

もう何年も昔の話になるのですが、私は当時封切られたばかりのルイ・マル監督の『死刑台のエレベーター』という映画を見て、 そのファーストシーンに強烈なショックを覚えたことがありました。突如画面に女性のセクシーな唇が大写しになり、そばの受話器に向かって、甘く切なげに「ジュテームジュテーム」とくり返しささやくのです。

しかしその響きには、どこか不安を隠しきれないせっぱつまった感じが漂っていました。このたったワンシーンで、その後の映画の不幸な結末と恋人同士の不安定な関係を暗示してみせたルイ・マル監督の手腕はさすがであると当時評価されたようです。

この映画の女性は、現在の二人の関係に精神的な不安感を覚えており、過去の安定した状態である「愛されている」という証拠を確認するために、「ジュテーム(愛している)」とくり返し恋人にささやきかけているのです。

このシーンにも見られるように女性が「愛している」を連発したり、あるいは疑問形でたびたび男に愛の確認を迫るときは、現在の二人の関係に不安感を覚えている証拠と考えてまずまちがいはないでしょう。 もともと、女性の心理機構には、同じことをくり返し体験することによって、精神の安らぎを得られる機能が備わっているともいえるからです。

したがって、不安定な状態に置かれている女性は、 言葉のくり返しによって、現在の状態の安定を確認しないと不安でたまらないのです。もう一つ一般的な例を挙げれば、女性が「愛」「や「恋」について、とくとくと語るときは、 彼女の深層心理に、性的な不安や不満が隠されていることが多いといえます。

こんな際は、女性はあからさまに性を語ることができないので、「愛」とか「恋」というロマンチックなオブラートに包んで、 暗に性的なサインを送るという演出をするわけです。とくに、恋に憧れて当然の思春期青春期をすぎて、かなりの年齢になった女性が、口角泡をとばすようにして「恋」や「愛」について語るときは、その心の奥底に満たされない性的欲求があるという読み方ができると確信して間違いないと思います。

次回は、女の瑣末(さまつ)な言動の中にこそ、女を知るヒントがある。ど題して話して見たいと思います。

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