女の本性は、第一印象と180度逆のところに隠されている

とは言え、このプライベートの扉を直接明けて中を覗き込むのは至難の業で、かえって女性の心を固く閉ざすことになりかねないのです。では、女性が自ら白日のもとにさらしているパブリックな態度、つまり表層の部分から深層をさぐることはできるだろうか。 答えはイエスである場合が殆どです。むしろそのためのかなりの手がかりが、表層に示されていると言っていいと思います。
というのも、女性が仮面をかぶり、パブリックな態度で内面をかくそうとするのは、 そう見られたくないなにかが内面にあり、その内面をもっとも感づかれにくい方向、つまり本心とはもっとも離れた方向、百八十度逆の方向へ、表層態度をもっていく傾向があるからなのです。
このことは、少なくとも、隠したい深層に対応して表層があるということであり、表層と深層とは何らかのつながりで結ばれているということであろうから、その表層からたぐって深層を引き出すことは十分可能なのではないかと思われます。
この考え方で、女性の第一印象から深層を読む方法を考えてみると、まず単純に言って、女性の第一印象の百八十度逆を見よということになるのですが、さらにくわしく見てみると、大きくわけて三つの場合があることがわかると思います。
第一に、女性の第一印象と百八十度逆のところに女性の「本性」がある場合。 第二に、女性の第一印象と百八十度逆のところに女性の「願望」がある場合。 第三に、百八十度逆とは限らないが、女性の第一印象に託された別の意味がある場合。
■以下、順を追って触れていこうと思います
第一の、第一印象と百八十度逆のところに本性がある場合ですが、この場合は、たとえば、その女性の第一印象が“陽気"であれば"陰気" "勝気"は"弱気""進歩"は"古風"な方向に注目すればいいと思います。 彼女の表層を形づくっているパブリックな性格が前者であり、深層の中に隠されているプライベートな性格が後者であることはいうまでもないと思います。
たとえば、とくに職業上、活動上などの必要があるわけではないのに、好んで男っぽい服装、ふるまいをする女性がおります。 ジーンズにコットンシャツを羽織り、スニーカーをはいて歩いたり、化粧っ気なしの短髪で、後ろから見ると男か女かわからないような女性もいます。
こうした女性の中には、言葉づかいや立居ふるまいまでが、どこか男っぽい印象のものがめずらしくないです。 こうした女性が、その外見どおり、男っぽい性格を持ち、心の奥深くまで男性的な傾向で占められているように感じるとしたら、その観察はあまりにも表層的であると思います。
いま述べた原則に照らして見れば、彼女のパブリックな言動が男っぽい印象を与えれば与えるほど、その深層には、女らしい本性が秘められており、本音ではその女らしさを認めてもらいたがっていると推測できる場合が少なくないのです。
しかし、その女らしさに自信がない。女らしさで勝負すると、ほかの女性に負けそうな気がする。そんなときに、そう思っていることを隠そうとして、正反対の男っぽい言動をとるのだと考えられるのでないかと推測されるのです。 「自分は女性としての魅力に欠けているのではないか」という不安が深層にあり、素直に女らしい服装、ふるまいができないでいるのです。
また、こんなこともあります。女性をくどくことについては、 自他ともに許す”オーソリティ"である知人の話によると、ことさらにプレイガールを気取る女性ほど、性体験に乏しいそうだと言ってます。「要するに背伸びしてるんですな」と彼は言っていたのですが、 この"背伸び"の意味は、「性体験に関する未熟さの隠ぺい」にあるのではないかと思います。
これもまた、ウブな自分という本性に自信がなく、それと正反対な態度をとることによって、相手の目を本性からそらせようとする、女性の深層心理の表われと考えていいだろうと思います。
■インテリ女性ほど、第一印象と極端に違う一面を持っている
女性の第一印象の裏側に隠された第二のものは、“本性”とまではいえない”願望"であるといった説明をします。現在は本性"となってはいないが、そうなりたいという強い願望がある場合です。 したがって、表層に表われている態度は、いま述べた”本性"を隠すためのカムフラージュ的な態度とは違って、まったくのウソではないのですが、それがすべてと思うと大まちがいをするというたぐいのものになるのです。
少なくとも、表面に表われた姿が彼女の一面であることは確かだが、しかし本心ではそこから脱出したがっているような場合が、これに当てはまるのです。たとえば、もうかなり以前になるのですが、 ジャンヌ・モローが主演した『マドモアゼル』という映画を見たとき、そこで、こうした女性の深層にある”願望"が生々しく描かれていることに感心した。ジャンヌ・モローが扮した役は、フランスの片田舎の学校の教師でした。
これがたいへんインテリで、大学出など見たこともない村人たちに、"マドモアゼル"と呼ばれ、尊敬を一身に集める事になるのです。ところが、この女教師が、あるとき教え子の父親にひと目惚れしてしまうのです。 その父親の仕事は映画を見た時の記憶では確か樵(きこり)だったと思います。
彼は仕事がら、肉体だけはたくましく頑強であったのですが、村人とはまったくといってよいほど接触をもたないため、 彼らから軽蔑の目で見られ孤立してい他のです。 女教師は、なんとか彼を自分にひきつけようとするのですが、最初はまったく無視される分けです。
そこで、かなり露骨な色仕掛けに訴え、とうとう一夜をともにすることに成功するわけです。 こうして、彼女は、昼は〝マドモアゼル"の仮面をかぶり、夜は情念と肉欲の塊と化す日々を続けるのです。あくまでも映画の話しですが、あながち真逆の話しでもないと思います。
このケースは少々極端にしても、 いわゆる"インテリ"と周囲から評されている女性の中には、ジャンヌ・モローが演じた女教師のような二面性を備えている場合がめずらしくないのです。男性が描く“知的な女性の像は、教養にあふれ、会話が洗練され、立居振る舞いにも下卑たところがないというものであろう。
したがって、こうした女性に接する男性も、当然礼儀正しくもちろん彼女たちも、 男たちが自分にどういった印象を抱くか、十分に熟知しているのです。そして、そのことを誇らしくも思っているのです。 しかし反面、自分に近づく男たちの ”行儀のよさに対して、心の中ではかなりのもの足りなさを感じているの物なのです。
だから彼女たちは、インテリ女性というパブリックな仮面を引き裂き、 女の欲望というプライベートな深層にまで大胆に踏み込んでくるほど、野卑で荒々しい男が現われてくれないかと、心中ひそかに期待もしているのものなのです。 次回は、育ちのいい女、しっかり者の本当の”願望”とは。というお話をしてみたいと思います。